東京大空襲から72年を迎え、東京都慰霊堂の前で献花し手を合わせる人たち=10日午前11時13分、東京都墨田区、越田省吾撮影
東京の下町一帯が大空襲に見舞われた72年前の3月10日、多くの人が火の海のなかを逃げ惑い、一晩で約10万人もの命が失われた。生き延びた人や遺族たちは、亡くした肉親らへの思いを胸に、平和を祈り続ける。
「ずっと苦しんで生きてきた。もう二度と戦争をしてほしくない」。千葉県柏市の豊村美恵子さん(90)は10日朝、入所している老人ホームで、あの日のことを思い返した。
当時18歳。東京都深川区(現江東区)で軍服縫製工場を営む両親らと暮らしていた。仕事は上野駅の切符販売係。空襲があった夜は宿直勤務で、直後に地下道を通って上野の山に避難した。
朝。黒くこげた服を着た人たちが上野駅の方に押し寄せてきた。一面、すさまじい焼け跡。何かにつまずいた。黒こげになった人だった。改めて周囲を見回すと、所々に焼死体があった。川にも無数の遺体が浮いている。家族を捜して歩き続けた。遺体の顔を1人ずつ見ていく。7日目、母親を見つけた。父と姉、弟も亡くなっていた。
約5カ月後の終戦直前。赤羽駅で米軍機の機銃掃射を浴び、右ひじを撃たれた。意識がかすむなか、思った。「私も死ぬのかな」。右手のひじから下を奪われた。
戦後、結婚したが、約2年で離婚。手が不自由で、家事が十分できない自分が歯がゆかった。
空襲犠牲者の遺族会と出あい、戦争体験を語り始めたのは70歳を過ぎてからだ。「あの悲惨さを語り継がなければ」と考えた。あえて義手を見せながら話すこともある。その活動も、高齢になり近年は減った。
いま、老人ホームでよくこう思う。「戦争がなかったら、どんな幸せがあったんだろう。違った人生を生きてみたいなあ」
埼玉県蕨市の金田茉莉(まり)…