織田信長は全国統一を望んでなかった?
楽市楽座などの斬新な政策を打ち出し、守旧勢力と戦って、近世へと続く新たな時代を切り開いたとされる改革者・織田信長。だが、近年の研究で、信長はむしろ室町幕府の継承者で、全国統一も目指していなかったとの説が浮上している。
織田信長は1534年、尾張の国衆である織田信秀の嫡男(ちゃくなん)として生まれた。
その半生は、通説ではこうだ。60年の桶狭間の戦いで駿河の今川義元を討ち取り、67年には美濃を平定。同業組合に当たる「座」の構成員以外も自由に商売できる「楽市楽座」の設置や関所の撤廃などに取り組んで自由交易の拡大を図る。
「天下布武」(天下を七徳の武で平定する)を目標に掲げ、68年には足利義昭を奉じて京へ上り室町幕府の15代将軍とするが、やがて義昭を追放。自ら天下に号令をかけるようになる。
守旧勢力を憎み、比叡山延暦寺などを焼き打ちにする一方、安土城に天皇を迎える館を築くなどして自らを天皇の上に置こうと企図。しかし、82年の本能寺の変で志半ばで倒れた。
だが、このような信長像には近年、疑義が呈されている。
東京大学史料編纂(へんさん)…