島根県海士町でカキの加工場を取材する国谷裕子さん(中央)=金川雄策撮影
島根県海士町(あまちょう)。隠岐諸島にある人口約2300人の小さな町だ。ユニークなキャッチコピー「ないものはない」を掲げ、独自の町づくりで人口減少に歯止めをかけたことで知られる。町が目指すのは、人々が安心して働き、学び、その豊かな暮らしが途切れることなく続く未来。それは「SDGs(エスディージーズ)(持続可能な開発目標)」の目的そのものではないか――。キャスターの国谷裕子さんと取材した。
SDGs特集ページ:住み続けたい島へ
廃校寸前の高校を変えた岩本悠さん 国谷裕子さんが聞く
「クリームをいただいているみたい」
青く透き通った海から引き揚げ、海水で洗ったばかりの岩ガキ「春香(はるか)」。その真っ白で大ぶりな身をほおばると、国谷さんに自然と笑みがこぼれた。
春香は2002年、自生していた岩ガキから誕生した島独自のブランドだ。もともとは漁業資源とみなされていなかったが、IターンとUターンの漁師2人で養殖を開始。主に東京・築地市場や首都圏のオイスターバーに出荷し、今シーズンは約1億3千万円を売り上げた。町の担当者は「町民税収入が約1億9千万円の町にとって、カキによる『外貨』獲得の意味は大きい」と話す。
養殖する漁師は現在7人で、出荷作業など多くの雇用を生んでいる。町は「本気の人には本気で応える」(山内道雄町長)と、カキの加工場の建設に約8千万円を投じるなど積極的に支援する。
同町の人口は、1950年の約7千人から、右肩下がりに減少。税収は細り、地方債の残高は01年度末に町予算の約2・5倍の約102億円に達した。財政再建団体への転落が目前だった。
「ないものはない。ならば、ある物を磨く。このままでは島の持続性はない」。02年に町長に就任した山内氏は、大胆な行財政改革を始めた。03年末、周辺町村との合併協議会が解散となり、地方交付税の大幅削減がのしかかる。05年には、町長や町職員の給与削減で、賃金が全国最低の自治体に。それでも、「経済的な基盤がないと、夢を描く意味もない」と、新たな産業づくりに力を入れた。
04年、公共事業が減った町内の建設会社が牧場経営に乗り出すと、町有農地を民間企業に開放するため島全域を農業特区として国に申請。島育ちの隠岐牛は松阪牛などと並ぶ高評価を受け、牛飼いになるため島に移住した若者もいる。05年には、春香や特産のイカの味を損なわずに冷凍する「CAS(キャス)凍結センター」を建設した。これで市場から遠いという弱点を克服し、運営する第三セクターは8期連続の黒字を達成している。
こうした経済基盤づくりの傍ら、町はさらなる未来への投資に乗り出した。それは、持続可能な町となるために最も重視すること、統廃合の危機にあった島唯一の高校の存続だった。(石橋亮介、丸山ひかり)
島根県海士町(あまちょう)と、隣の西ノ島町、知夫(ちぶ)村の「島前(どうぜん)地域」で唯一の高校である県立隠岐島前高校。2006年度に入学者の定員が80人から40人に、2年後には新入生が30人を割り、統廃合の危機にさらされていた。
高校が消えれば島の子ども、そしてその家族も出ていく。移住する若者もいなくなる。危機感から、08年ごろに「魅力化プロジェクト」が始まった。
県立の高校と地元の3町村が連携する、前例のない挑戦。そこで重要な役割を担ったのが、海士町幹部らの強い要請を受けて06年末に町に移住し、その後「魅力化プロデューサー」となった岩本悠さん(37)だった。
高校では個別指導の強化とともに、地域の課題に取り組んだり島内外の人と交流したりして、生きる力を育む授業を開始。県外の子も積極的に受け入れた。3町村は公立塾「隠岐國学習センター」を設け、高校と連携して学習支援とキャリア教育をする、全国でも画期的なシステムを作った。
その結果、大学進学を望む子は島外の高校へ行くという傾向が変わり、4年後には入学者の定員が80人に復活。今年は県外生を含む64人が入学した。
ある日の学習センター。高校3年生の生徒たちが、SDGsと自分の夢とを結びつけて考えるという授業に参加していた。
いずれ島で自分の美容室を開きたいという渡辺あさひさん(18)は、「人の髪にも海の自然にも良いシャンプーを使い、女性も男性も同じ給料にする」。岡山県から島に「留学」している勝本志津佳さん(18)は、伝統工芸品の良さを広める仕事を、貧しい人々の生活の向上に役立てられないか、友達と議論した。
島の子たちに、社会の課題を自分に引きつけて考える力が育っていることがかいま見えた。
(丸山ひかり)