工藤静香さん。今月20日に、ソロデビュー30周年記念スペシャルライブDVDが発売される=仙波理撮影
今年ソロデビュー30周年を迎えた歌手の工藤静香さんが、朝日新聞の単独インタビューにこたえた。日本がバブル景気に湧いた1980年代後半~90年代前半、秋元康さん、松井五郎さん、中島みゆきさん、後藤次利さんらが作詞、作曲した楽曲を歌って、次々とヒット。今もカラオケの人気曲として歌い継がれる、それらの楽曲の魅力について語った。(聞き手・寺下真理加)
「慟哭」明るく歌った工藤静香 「歌手、女として葛藤」
――87年、17歳でソロデビューした時の心境は。
ソロデビューしても、最初のアルバム「ミステリアス」(88年1月発売、「禁断のテレパシー」などを収録)が出るまでは、この世界に長く居られるのか、自分自身も居たいのか、ハッキリ見えなかったんです。「おニャン子クラブ」にいた時も自分が人気だと感じたことはなかったし、外に出た時も「おニャン子ありきの工藤静香」という意識だった。おニャン子の力なしには工藤静香も成り立たないと思っていました。でも最初のアルバムに出会い、眠れないほど忙しい中、音に神経を集中しながらレコーディングする。音符と私の声が一つにあてはまっていく様子がすごく楽しくて、夢中になれることだと気付いた。「歌を続けていけるかも。続けたい」と強く思ったのはその時です。
――当時の思い出を。
プロデューサーの渡辺有三さん(2014年死去)とは時々ぶつかることもありました。私はまだ若いこともあって、この人を信用していいか半信半疑だった。私はそのころ、よく飴(あめ)をレコーディングのギリギリまでなめて、パッと出して歌うんですけど、スタジオに入ってきた時、飴が口に入っている、その音が有三さんは気に入らなかった。「飴、出してもらえるかな?」といわれて、私は「出したら歌えません」と答えた。もちろん「歌う前には出します」と付け加えたのだけど。有三さんは「あ、そう。じゃあ、オッケー」といって、それで終わりでした。現場に溶け込む前は、そんな感じ。もともと人をすぐに信用するタイプではないので。とにかく生意気だったと思います。おニャン子時代から、なかなか上の人、権力を持っている人に可愛がってもらえない性格で、自分から彼らに寄っても行けなかった。
――「嵐の素顔」「黄砂に吹かれて」など数々のシングルがチャートを席巻しました。
1年にシングル3曲を出すよう…