「原子爆弾に関し荒勝教授より広島実地見聞報告」との記述がある8月13日、「正午より聖上陛下の御放送あり(中略)大東亜戦争は遂に終結」などと記された8月15日の日記=京都大基礎物理学研究所提供
日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹博士(1907~81)がつけていた日記のうち、太平洋戦争終戦前後の45年の内容を、京都大が21日、公表した。原爆研究に関わったことを示す記述があるほか、戦後、戦争反対や核廃絶を訴えるまでの軌跡がうかがえ、貴重な資料だと専門家は指摘する。
公表された日記には教授だった京都帝国大での講義や会議の記録、空襲被害の報道の抜き書きもある。8月15日は「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」と記している。
湯川博士は「F研究」と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わったことが知られている。日記にも「F研究相談」「F研究 打合せ会」といった記述が45年2~7月に計4回登場。本人の記述はこれを裏付けている。また、米軍が投下した原爆については「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」(8月7日)などと記している。
終戦後、「反省と沈思の日々」として沈黙を貫き、その後、核兵器廃絶や平和を訴えていく。日記にはその間に哲学者や文学者らと会っていたことなどが記されている。
解読に取り組んだ小沼通二(みちじ)・慶応大名誉教授は記者会見で「終戦直前、直後でさえ一貫して物理に取り組んでいた姿や、戦後、湯川博士が沈黙の期間に何をして誰に会ったのかが読み取れる。日本の価値観がひっくり返った時代の、日本を代表する科学者の日記の内容は貴重だ」と話した。
湯川博士の日記(研究室日記、研究室日誌など)は34~49年と54年の存在が確認され、湯川博士が初代所長を務めた京大基礎物理学研究所に遺族が寄贈。読みづらいことや専門的な内容を含むため、過去に内容が公表されたのは、ノーベル賞(49年)の受賞理由となった中間子論の研究がつづられた34年の分など一部にとどまる。(波多野陽)
◇
湯川秀樹 1907年東京生まれ。旧京都帝国大学(現・京都大)で学び、34年に「中間子論」を発表。49年、日本人初のノーベル賞となった物理学賞を受賞した。戦後は平和運動に力を注ぎ、55年に核兵器と戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名。パグウォッシュ会議にも参加し、核なき世界の実現を訴えた。亡くなる直前まで平和を訴え続けた。81年死去。