鴨下祐也さん。毎週金曜日に国会前で開かれている集会で壇上に立った=東京都千代田区
東京電力福島第一原発事故で自主避難したある家族は、母子と父が分かれた約1年半の生活を経て、いま都内に住む。3年前の夏、母子は、親が子を抱きしめる絵画作品「ダキシメルオモイ」のモデルになった。先が見通せない暮らしが続く中、家族一緒の生活を選んだ父は絵の中に何を見たのか――。
2011年秋、東京都内であった震災避難者支援の催しでのことだった。
当時4歳だった次男が、妻に駆け寄ってきた。もらった500円玉を小さな手に握りしめて。
「このお金、お父さんにあげて。お金あるから、お仕事やめて一緒に住もうって言って――」
「お父さん」は鴨下祐也さん(49)。東日本大震災前は妻(47)と2人の息子と福島県いわき市に住んでいた。
東京電力福島第一原発事故による放射能の影響を恐れ、妻子は4度の転居を経て東京都が避難者に提供する築35年超の団地に。国立福島工業高等専門学校(いわき市)の教員だった鴨下さんは一度はいわきを離れたものの、震災発生の翌月には戻った。
さよならの日曜日
毎週金曜日の深夜、車で約200キロ先の東京に向かった。片道約3時間半。再会にはしゃぐ息子たちは、くたびれた父親の体に容赦なくよじ登った。妻には夫の背中がだんだん小さくなっているように見えた。
日曜日の夜。また、さよならのときが訪れる。鴨下さんの車が角を曲がって視界から消えると、次男は家に駆け込んだ。布団にもぐり、声を殺して泣いた。泣いてわびる母親に「ごめんしないで。ママのせいじゃない」と言った。
いわき市の自宅には、電車のおもちゃが震災当日のまま転がっていた。息子がいつかおもちゃを必要としなくなるように、いつか父親を必要としなくなる。必要とされている今、おもちゃも自分もここにいていいのだろうか――。
かつて息子たちが走り回っていた自宅の広いリビング。床を拭いたモップに放射線測定器を向けると、警報音が鳴った。「ここに家族は戻せない」
震災発生から約1年半経った12年10月、鴨下さんは福島高専を辞め、家族と暮らす道を選んだ。
その後の避難生活も平坦(へいたん)な道のりではなかった。
国はいわき市には避難指示を出さなかった。鴨下さん家族は「自主避難者」とされ、周りの目は冷たい。妻は「勝手に逃げた」「金目当てで浅ましい」と近しい人からも責められた。報道機関の取材に実名で答えたことがきっかけで、うそにまみれた文書もばらまかれた。以来、妻は身を縮めるようにして暮らす。
昔の妻の笑顔、絵の中に
妻子が「ダキシメルオモイ」のモデルになったのは15年夏だった。妻は知人がモデルになった絵をみて、笑って子どもを抱きしめる母親たちの中に自分も加わりたいと思った。仕上がった絵の中で、鴨下さんは、久しぶりに妻の昔の笑顔を見たような気がした。
避難した団地の無償提供は昨年3月末で打ち切られた。いつ追い出されるのか。先が見通せない暮らしが続く。
鴨下さんら避難者47人は、国と東電を相手取った損害賠償訴訟を東京地裁に起こしている。提訴から5年越しの判決が今月16日に迫る。
「家も仕事もすべてが変わった。こんな生き方をしたくなかった。それなのに自己責任なんですか」
鴨下さんは問いかける。(保坂知晃)