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強豪多く練習場所も豊富 東海の高校野球、強さの秘密は

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-4-10 9:33:12  点击:  切换到繁體中文

 

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大垣日大高の阪口慶三監督=岐阜県大垣市


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夏の全国高校野球選手権大会が今年で100回を迎える。東海地方には、第1回大会から出場を続ける学校や全国最多の優勝回数を誇る学校もある。その強さはどこにあるのか。東海の高校野球をよく知る監督と選手の2人に話を聞いた。(広部憲太郎、古庄暢)


「絶対的強さの中京商 負けじ魂が優勝へ」大垣日大・阪口慶三監督


夏の全国高校野球選手権大会が今年で100回を迎える。大垣日大(岐阜)の阪口慶三監督(73)は、東邦(愛知)時代と合わせて半世紀にわたり監督を務める。東海地方のライバル校と競い合い、春夏合わせて優勝1回、準優勝3回を成し遂げた。全国屈指の名将に、東海地方の強さについて語ってもらった。


1967年、東邦の監督に就任した時は、前年に春夏連覇した中京商(後の中京―中京大中京)が絶対的な強さだった。杉浦藤文監督が全ポジションに俊足をそろえ、スクイズやエンドランといった切れ味鋭いサインを前に、ベンチで独り相撲を取らされ、胃が痛くなった。監督生活52年の今も杉浦監督の采配がナンバーワンだと思う。


中京商の指導者だった瀧正男さんに教えを請いにいくと「いい度胸をしているな」と喜んでくれた。そこで学んだ機動力は今も生きている。中京の試合をバックネット裏で見て研究した。


中京がステンレスなら、東邦はブリキ。でも、3倍、4倍の練習をすれば強くなると信じた。学校には合宿所がないから教室を借りて、生徒と一緒に寝ていた。中京に匹敵する脚力とパワー、そして迫力のある声をたたき込んだ。これは今も少しも変わらない。


愛知は「さすが中京」と言われてきた。この「さすが」を東邦に持ってきたかった。69年夏の愛知大会で中京商を破って優勝してから3連覇。77年夏の甲子園で、(バンビと呼ばれた)坂本佳一を擁して準優勝し、中京に追いついたという気持ちになった。


杉浦監督が(83年に)退いた頃、私が試合会場のブルペンにいた時「おい、阪口。これからの愛知県はお前が引っ張れ」と声をかけられた。この言葉は一生忘れられない。


80年代は「私学4強」の愛工大名電、享栄も対抗心を燃やしてきた。名電は中村豪監督が豪快な打線を作った。享栄の柴垣旭延監督も、野性味あふれるチームを作り上げた。監督同士は一緒に食事とかはしない。心に燃える物があると、目と目が合っても火花が散り、意識過剰になった。


私学4強という存在は常に頭にあった。教え子や補欠の選手を使いながら、情報収集した。甲子園で勝つには、まず愛知県を制さないといけない。負けじ魂が出て、89年の選抜大会優勝につながった。苦しかったが楽しい時代だった。


三重県では、投攻守のバランスが取れた三重が不動の王者。いなべ総合とは練習試合をよく行うが、尾崎英也監督は野球を勉強している情熱家だ。昨夏の甲子園に初出場した津田学園の佐川竜朗監督も色々なことを質問してくれる。


2005年から大垣日大の指揮を執る際「岐阜県のレベルを高めたい」と言った。バットスイング、選手の駒の進め方、スローイングの仕方など、全国に通用する野球を、試合の中で伝えようと思った。


阪口野球が高校野球の教科書でありたいし、岐阜県全体が打倒大垣日大を目指すような負けないチームを作るのが私の仕事。責任重大な立場にいる。


2009年夏に県岐阜商が4強に入るなど、甲子園で勝ち残る学校が増え、昨秋は大垣西が県2位で東海大会8強まで進んだ。色々な人から「岐阜県のレベルが上がった」と言われるとうれしい。


昨夏まで秀岳館(熊本)を率いた鍛治舎巧監督が県岐阜商監督になったのは刺激になる。東邦時代は県岐阜商が抜きんでており、東海大会で当たるのが嫌だった。鍛治舎監督には、横綱白鵬のような断トツのチームを作ってくれることを期待する。その大きな目標を大垣日大や市岐阜商などが倒していくような県にしたい。


後に続く監督が、人間的にもあこがれてくれるような指導者でありたい。選手は一、二が勉強、三、四が野球。学校にある私の部屋には部員の試験結果を貼っています。高校野球の指導者は教育者として、野球を通じて人を育てないといけない。若い者に簡単に阪口野球が破られたとあってはいかん。まだまだ壁にならないといけない。


73歳になってもグラウンドに出ると、監督になった23歳の頃のような燃える気持ちは全く変わらない。かえって熱くなっているね。



〈さかぐち・けいぞう〉 1967年、母校東邦の監督に就任。甲子園は77年夏と88年春に準優勝し、89年春を制した。2005年から大垣日大監督となり、07年春に準優勝に導いた。甲子園出場数は春夏計31回。73歳。


「グラウンド豊富 練習相手も3県にいる」大府OB・元巨人の槙原寛己さん


東海地方は平野も多く、グラウンドに困らない。気候も冬場は寒いとはいっても、雪はたいして降らないし、北海道とは違う。東海3県は、ちょっと車を飛ばせば練習相手もいる。私も、高校時代の練習試合は県内の学校よりも、保護者の運転するバスに乗って三重や岐阜に出かけることが多かった。そういう環境が東海勢の活躍につながっているんじゃないかと思います。今夏も東海の選手たちの活躍を期待しています。


高校時代を振り返るとつらかったんだけど、2年生の夏、3年生の春と2回も甲子園に行けたことが最高で、自信になった。


愛知は当時から私学の強豪校が多く、私学に負けたくないという思いもあって県立の大府高校に進学しました。過去にも甲子園に行った学校なので、可能性があると思っていた。


高校時代のライバルといえば、中京(現中京大中京)やソフトバンクホークス監督の工藤公康さんがいた名古屋電気(現愛工大名電)ですね。いま思えば、それほど楽ではなかったかもしれません。


練習は毎日で、遊びもせずにちゃんとしていた。グラウンドに照明がついていたんで、ベースランニングをしたりして結構遅くまで練習をしていました。休みはテスト週間のときのみで、普通の高校生らしい生活は味わえなかったけど、これが当たり前だと思ってやっていました。


それでも2年生のときに初めて甲子園に行くまでは「僕らなんて行けるわけないよね」って内心では思っていた。変えてくれたのは当時の監督でした。2年生の6月ごろだった思いますが、試合で悪い負け方をして、試合後に「おまえらなんて甲子園にいけない」と怒られたことがありました。そこからみんな監督を見返してやろうと思って頑張った。


2年生のときは、私は投手だけど背番号3でベンチにいて、試合には出られませんでした。それでも、チームが甲子園で勝ったことで自信になり、翌春の選抜大会は甲子園が近く感じました。夏が終わってからあまり時間がなかったわりには秋の東海大会を勝ち上がり、あれよあれよと出場を決めました。


この年になっても、選抜大会も夏の全国高校野球選手権も毎年テレビなどで見ています。いつみても楽しいし、こんな時代もあったなと思い起こさせてくれる。


タイブレーク制の導入など選手を守ろうとすることは当然、考えないといけないでしょう。ただ、高校野球だからこそ、延長戦や再試合の熱戦があり、選手たちの熱い姿がある。これから先、超高校級みたいな選手は出にくくなるかもしれないですね。



〈まきはら・ひろみ〉 愛知県出身。1982年に愛知県立大府高校を卒業後、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。94年5月18日の広島カープ戦で完全試合を達成した。2001年に引退し、現在はTBS野球解説者など。54歳。


東海の高校野球 全国大会での主な出来事


1915年 第1回全国中等学校優勝野球大会が大阪府豊中市の豊中球場で開催。東海代表で三重四中(現宇治山田)が出場


17年 第3回大会で愛知一中(現旭丘)が東海勢初の夏優勝


24年 第1回全国選抜中等学校野球大会が名古屋市で開かれる(4月)。甲子園大運動場(現阪神甲子園球場)が完成し、夏の大会会場に


33年 岐阜商(現県岐阜商)が春初優勝。中京商(現中京大中京)が夏3連覇


34年 東邦商(現東邦)が春初優勝


36年 愛知商が春初優勝、岐阜商が夏初優勝


41~45年 第2次世界大戦などの影響で全国中等学校優勝野球大会が中止


48年 戦後の学制改革にともない、大会名が夏は「全国高校野球選手権大会」、春は「選抜高校野球大会」に


55年 四日市が夏初優勝


69年 三重が春初優勝


2005年 愛工大名電が春初優勝


07年 大垣日大が春準優勝


09年 中京大中京が全国最多の7度目の夏優勝


14年 三重が夏準優勝




 

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