(1971年決勝 磐城0―1桐蔭学園)
磐城OBの詩人、草野心平さんがチームの帰郷時に作った「ふるさとは君たちを迎える」の詩が、福島県民の思いを代弁していた。
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“参加全チームのうち、ずば抜けてチッチャな君たちが次から次と強敵を倒していった。人間の可能性は無限であり、また人間の精神力は不可能を可能にすることも出来る。その証しを君たちが具現したかのように”
記念撮影する準優勝の磐城の選手たち=1971年8月16日
中堅手だった宗像治・前県高野連理事長は、当時をこう振り返る。「平均身長は168センチくらい。ちびっ子軍団と言われた。須永憲史監督はデータを集め、相手選手の名前、身長、特徴など暗記させられた。初めて戦う相手でも、相手を知り尽くすという意味で常に優位だった」
バットをもって当時を振り返る宗像治さん
1971年8月16日、決勝。ノーシードの福島大会から東北大会を勝ち抜いて2年連続で代表になった磐城は、初出場だった桐蔭学園(神奈川)と対戦した。
「我々はそこまで無心だった。初戦優勝候補の日大一(東東京)に勝てると思っていなかったし、その後も勝ち進むとは思っていなかった。それが決勝前日に『ここまで来たら、勝ちたい』と話し合った。少し、欲が出てしまったかな」
試合は緊迫した投手戦になった。磐城の主戦は165センチで主将、「小さいな大投手」と言われた田村隆寿だった。甲子園入り後、日大一に1―0、静岡学園(静岡)は3―0、準決勝の郡山(奈良)は4―0と、3試合連続で完封勝利を挙げていた。
第53回大会 3試合連続無失点など大会で好投した磐城の田村隆寿
当時の印象を宗像は「針の穴を通すような制球。四球は考えられない。内、外野にサインが来て守備位置を変更しても、捕手の構えたところに投げるので不安がない。当時V9の巨人の川上監督が『磐城の田村を見習え』と投手に話した、と聞いた」という。
当時を振り返る宗像治さん
相手投手の大塚喜代美は下手投げ。準決勝で同じ下手投げを攻略した自信もあった。「対策は練っていた。大塚投手は浮き上がってくる球を投げる素晴らしい投手だったが、連投で思ったより球は来ていなかった。だから、『打てる』という気持ちが力みになったかも知れない」
試合が動いたのは七回。1死から田村のカーブを桐蔭学園の4番・土屋恵三郎が右中間に三塁打した。この大会、田村が打たれた初の長打だった。2死後、打席に峰尾晃。1ボール2ストライクから田村はカーブのサインに首を振った。選んだのはこの大会でさえていたシンカー。だが、落ちが甘くなる。右中間に三塁打され、これが決勝点となる。この大会で唯一と言ってもいい失投だった。
34イニング目に初失点した田村は、試合終了時こうコメントしている。「最初の三塁打は外角のボールのカーブ。決勝打は投げ急いですっぽ抜けてしまった。ここまでやれたから満足。『一球入魂』という言葉が好きで、いつもそれを思い出しながら投げた」
桐蔭学園を7安打1点に抑えながら涙をのんだ磐城のエース・田村隆寿
反撃する磐城は八回は1死二塁、九回も2死三塁まで攻め込んだが、1点が遠かった。「点を取られた七回から雨が降ってきたが、気にはならなかった。逆転出来ると信じてやっていた」と宗像は語る。
この年の4月、磐城の地元いわき市は生活の基盤だった常磐炭鉱の閉山が決まり、暗いニュースに包まれていた。大優勝旗にこそ届かなかったが、東の横綱と言われた日大一戦から始まった快挙に市民は沸いた。今は禁止の帰郷後のパレードには15万人の人手があったと記録が残っている。
「甲子園に入ってから全部で2週間くらい。日大一との対戦が決まり、OB相手に打撃練習をした。甲子園で練習はさらにきつくなった。決勝が終わる頃はお盆。早く帰って受験勉強をしなきゃあ、と思った。人生の中で一番充実した日々を過ごさせてもらった」(竹園隆浩)
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宗像治(むなかた・おさむ) 夏準優勝した1971年、勝った3試合全てで安打と打点をマーク。早大進学後は準硬式に。福島北監督で88年春選抜出場。2004年から10年間、福島県高野連理事長。