(1999年1回戦 新湊9―5小松)
高校野球ファンが、新湊(富山)と聞いて思い浮かべるのは、1986年の選抜大会。強豪をなぎ倒して4強進出した「新湊旋風」だろう。
動画もニュースも「バーチャル高校野球」
ただ、夏は80、86、97年と初戦敗退。99年の1回戦も、小松(石川)の本格派・竹田純に、八回まで散発2安打と抑えられ、九回の攻撃を迎えた。その差は5点。先頭の5番八嶋公太が敵失で出塁したものの、次打者は打ち損じの投ゴロ。万事休す――と思われた。
九回表新湊1死三塁、浅井は中前に同点の適時打を放つ。投手竹田、捕手帆角
ところが、である。「相手が試合を早く終わらせたがっているように見えた」と、OBでもある森義人監督。ゴロを捕った小松の竹田が、際どいタイミングながら二塁へ送球し、球が逸(そ)れた。カバーもなぜか緩慢で、あわや併殺の状況が一転。想像だにせぬ形で、無死一、三塁の好機が転がり込んできた。
新湊が避けたかったのは、アウトを一つずつ取られて逃げ切られる展開だった。それが、7番織田直樹の二塁打で1点をかえすと、暴投で2人目の走者も生還。新湊のうねりは、勝利を目前に浮足立つ小松をのみ込んでいった。
新湊の地元は人口約3万5千人の漁師町。熱狂的な「新高ファン」も多く、点が入れば、アルプス席では地元の曳山(ひきやま)まつりの「イヤサー、イヤサー」というかけ声とともに、無数の青いはたきが揺れるお祭り騒ぎだ。攻勢に転じたベンチでは、記録員の海老克昌(かつよし)が隣の選手との会話もままならない。応援団の迫力が増していくのを感じたという。
「自分の中で、同じ勝ちでも、完封と完投の間にすごく隔たりがあった」。そんな竹田の消沈ぶりを見透かしたかのように、新湊はたたみかける。8番以降も連打で続き、あっという間に4―5。なおも1死三塁の絶好機で、「まさか自分まで回ってくるとは思わなかった」という2番浅井亮太が打席に入った。
浅井は身長171センチで非力なタイプ。確実に追いつくならスクイズが定石だ。だが、森の強気なサインの出し方を見て、バットを寝かせる必要は無いと覚悟を決めた。この打席で5球目にフォークをカットし、竹田がそれを投げる際の癖を見抜いた。続く6球目。狙いは正しかった。落ちきらないフォークをとらえると、ライナー性の打球が中前へ抜け、試合は振り出しに戻った。
浅井亮太
八回裏の新湊のまずい守備も、結果的に同点劇の呼び水になった。小松の先頭打者・竹田が飛ばした打球に、左翼手が頭から飛び込んで後逸し、三塁打となった。小松にとっては貴重な2点につながったが、それまでに138球投げていた竹田には全力疾走がきつかった。九回のマウンドは疲労の色が濃かった。
隣県の富山と石川の代表が、甲子園で顔を合わせるのは春夏通じて初。甲子園での戦績は富山勢が圧倒的に劣るが、新湊には絶対に負けたくない意地があった。抽選会で対戦が決まった時のこと。すぐ近くに座る小松の選手がガッツポーズをする姿がまぶたに焼き付いていた。
十一回表新湊無死二、三塁、稲井は中前に勝ち越しの適時打を放つ。投手山本、捕手帆角
新湊の九回の攻撃は同点止まり。だが、小松打線は、新湊の2番手釣洋平の球にタイミングが合わず。竹田の球威も落ちていた。新湊の稲井誠は「この流れならいけると確信した」という。十一回。四球を契機に無死二、三塁とし、竹田を降板させると、稲井が2人を迎え入れる中前安打。一挙4得点し、大逆転劇を完成させた。86年の選抜初戦で享栄(愛知)を破った時に似た天候。新湊が「吉兆」とする雨が時折落ちる中での3時間6分だった。
高校野球好きだった作詞家の故阿久悠氏が、著書「甲子園の詩(うた) 敗れざる君たちへ」(幻戯書房)で、この試合をつづっている。
「たった一球のボールを 取り返しのつかない失敗に思わせる 歓声の催眠術 恐るべし 恐るべし しかし それらを自らに点火させて 奇跡を演じた選手諸君 また おそるべしであろう」
硬式未経験者ばかりで、富山大会の優勝候補に挙がることも稀(まれ)。そんな公立校の名が、「旋風」「ミラクル」といった形容詞を伴い、全国のファンに知れ渡るわけである。
稲井誠
◇
あさい・りょうた 1981年、高岡市生まれ。171センチ、58キロで非力ながら、バントなど小技がうまく、打線のつなぎ役として欠かせなかった二塁手。
いない・まこと 1981年、射水市生まれ。身体能力が高く、1年生の夏も1番中堅手として甲子園に出場した。「仲間に恵まれ、良い経験ができた」