高校球児だったころの思い出を話す帝国ホテル会長の小林哲也さん=2018年5月29日、山本和生撮影
1890(明治23)年開業で日本を代表する老舗の帝国ホテル。小林哲也会長(72)は、高校球児だった頃の忘れられない思い出を胸に、ホテルマンの道を歩んできた。
東京都立千歳高の野球部で、中堅手でした。青春の一コマとして今でも鮮明に記憶に残る試合があります。
「都立! 打てるもんなら打ってみろ」。1963(昭和38)年、第45回大会の東京大会。3回戦で法政一(現法政)と対戦しました。1番打者の私が右打席に立つと、ミットをたたきながら捕手が声を掛けてきた。田淵幸一さん(71、元阪神など)でした。1学年下の彼は背が高かった。
試合は千歳が七回までリード。八回に田淵さんに同点打を打たれて延長に入りました。「勝てるかもしれない」と考えていましたが、延長十一回に勝ち越されて敗れました。本当に悔しくて全員で男泣き。新聞では「千歳健闘」と見出しになりました。
こぢんまりとした野球部でしたけど、節度ある厳しさがあった。1年はボールを20~30個持ち帰ってたこ糸で縫うのが役割。レギュラー以外は竹バットを使っていました。トレーニングもたくさんしました。ウサギ跳びをしたり、10キロ走では成城学園まで行って女子学生の前で先輩が格好つけたり。肥だめに落ちたやつもいたなあ。
野球部にいながらロックバンドも組んだ。担当はサイドギター。青春を謳歌(おうか)していたんですね。読書もした。2年の頃に吉川英治の「親鸞」を読み始めたら止まらなくなって、野球部の練習をサボっちゃった。本を読みあさるようになり、古今東西いろいろな人がいるなと、人間に興味を持ち始めました。野球では自分の能力の限界を感じていたし、神宮球場でベンチを温める度胸もなかったので、大学ではプレーを続けませんでした。
大卒後に帝国ホテルに入り、まず担当したのはハウスキーパー。客室だけでなく従業員用のトイレも掃除しました。泥がついたユニホームをたわしで洗うくらいしか経験がなかった。でも、続けていくうちにやりがいにつながった。お客様から「大変なお仕事。気持ちよく使わせてもらっている、ありがとう」と声を掛けていただいて、モチベーションにつながりました。
ホテルの仕事はドアマンからベルマン、フロント、レストラン……などと鎖のようにつながっている。私は野球部にいたからこそ、チームワークと我慢強さが身についたと思います。お客様との縁を重ね続けることが大切で、帝国ホテル128年の歴史につながっている。いいサービスをご提供すれば、リピーターになって頂ける。
2014年に新聞で田淵さんが帝国ホテルのアップルパイを褒めてくれました。お礼状を書くと会いに来てくれた。
大学野球やプロ野球で田淵さんの活躍を見ていましたが、あのグラウンド以来の51年ぶりの再会。田淵さんにはたくさんある試合の中の一つかもしれないが、私には思い出深い試合だった。私が野球をしていなかったら、帝国ホテルに入っていなかったら、新聞を読んでいなかったら再会することはなかった。これもご縁だと思います。
昔は野球一辺倒だったけれど、今は他の競技も人気がある。だから、球児の皆さんには「よくぞ野球を選んでくれた」と言いたい。野球の人気を立て直すのは君たちです。
企業経営でも現場の努力が信頼を確かなものにする。一生懸命やるからこそ得られる経験がある。若い人たちには努力を続けてほしいです。(辻健治)
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こばやし・てつや 1945年新潟県生まれ。69年に慶応大卒業後、帝国ホテル入社。フロント、人事などの担当を経て、89年にセールス部長。その後、営業企画室長、東京総支配人、副社長などを歴任して2004年、9代目社長に就任。13年から現職。