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主力離れた逆境の夏、指導貫き頂点へ 帝京・前田監督

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-6-7 18:59:24  点击:  切换到繁體中文

 

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帝京の前田三夫監督


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指導歴45年、春夏の甲子園通算51勝を誇る帝京の監督・前田三夫(69)にとって、スパルタ指導と自主性に任せる指導は、相反するものではない。それを確信したのが1989(平成元)年の夏の甲子園だった。


初優勝が目の前に迫った決勝。後にプロ入りする帝京の吉岡雄二と仙台育英(宮城)の大越基が九回まで0―0の投手戦を演じていた。


ベンチの前田には、信念があった。選手の実力を開花させるには、プレッシャーに慣れさせることが必要だ。だからこそ、普段の練習から選手に厳しい言葉を投げかけ、ノックでゆさぶってきた。一方で甲子園入りした選手たちは、言われなくても宿舎でミーティングを開いていた。「何も言うことはない」。前田の理想を実現したチームだった。


九回のサヨナラ負けの瀬戸際を吉岡が抑えると、延長十回表1死二、三塁、3番鹿野浩司が中堅へ抜ける2点適時打を放ち、初優勝を果たした。前田が40歳の時だった。この大一番は、関東地区の視聴率がNHKのテレビ中継で平均29・7%(ビデオリサーチ調べ)を記録した。


92年の選抜大会でも優勝し、前田は自分の指導の正しさが証明されたと感じていた。しかし、95年夏は逆境が訪れる。前田の厳しい練習に反発した3年生の主力部員3人が、東東京大会直前にチームを離れたこともあり、ベンチ入りのほとんどを2年生が占めた。


さらに東東京大会での試合運びに批判が集まった。あと1点でコールド勝ちの場面で、外野にフライがあがったが、三塁走者がタッチアップしなかった。試合を終わらせなかったのは、投手を調整登板させるためだった。甲子園出場後も激しい批判は続いたが、帝京は2度目の全国制覇という結果を残した。「自由が好きな生徒がでて戸惑ったが、妥協せずに指導した。タッチアップの件はダメ。反省しました」


前田が考える監督の役割とは。「生徒に任せるのも大事だが、楽な方向に流れないようにすること。生徒に厳しい指導をすることで、自主性が生きてくる。吉岡の時は真の意味で自主性のチームだった」と言葉を選ぶ。


前田はとにかく野球を研究したが、生徒に押しつけなかった。「打撃は自分で考えて本物になれる。その時は『みごとだ』って褒める。そうして選手は自信を持つ。選手がどう試行錯誤するかが楽しみだった」


チーム作りで参考にしたのは、83年の選抜大会1回戦で対戦し、0―11で敗れたやまびこ打線の池田(徳島)。それまで練習では、7対3で守備を重視していたが、その比率を反対に。フリー打撃や実戦を想定した練習を繰り返し、月水金が筋力トレーニング、火木土は水泳トレーニングに充てた。


平成の29年間で、走攻守が飛躍的に伸びたと感じているが、前田は「単に打って走って守ってばかりが重視されて、野球が大味になった。昔なら広島商のバント戦法、土佐高の全力疾走など見応えがあった」。


今の球児について、「情報が多くて頭でっかちになり、すぐにあきらめて、人のまねをする。それで結果を追い求める。もっと、じっくり自分の可能性を信じて欲しい」。


帝京は、2011年夏以来、甲子園から遠ざかり、「余裕がなく、選手のプレーが雑になって、チャンスが来る前に自滅している」と原因を分析する。「とにかくチャンスを待つことを選手に教えたい」。6日に69歳になった前田にとっても辛抱の時が続いている。=敬称略(阿部健祐)



まえだ・みつお 1949年生まれ。千葉県袖ケ浦市出身。長嶋茂雄に憧れ、現役時代は主に三塁手。木更津中央高(現木更津総合)から帝京大に進み、72年の卒業と同時に帝京高の監督。甲子園通算勝利51勝は歴代3位タイ。




 

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