元プロ野球選手の森本稀哲さん=2018年6月8日午後0時41分、東京都千代田区、阿部健祐撮影
「これまで培ってきた力をすべての瞬間に注ぎ、最後まで夢と希望を持ってプレーすることを誓います」。1998年7月、帝京高3年だった森本稀哲(ひちょり、37)は、第80回全国高校野球選手権記念東・西東京大会の合同開会式でこう宣誓した。チームはそのまま東大会で優勝し、甲子園への切符を手にした。
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プロ8年目でレギュラーをつかみ、「松坂世代」の中では、遅咲きと称された森本。中学まで軟式で育ち、帝京にはセレクションで入った。甲子園でも、注目されているという実感はなかったという。
3回戦では和田毅(ソフトバンク)を擁する浜田(島根)と対戦。3番、遊撃手の森本は八回、狙っていた直球をバックスクリーンへ。2点本塁打になった。ただ、和田のキレのある変化球に苦戦し、チームも2―3で惜敗。悔しさと本塁打を放った喜び。そして、開放感を感じながら、森本の最初で最後の甲子園は終わった。
「実はプロ(の誘い)が来ている」。数日後、前田三夫監督にこう告げられた時は驚いた。ドラフト当日は、いつも通り教室で授業を受けていた。「プロ、かかりましたよ」。休み時間に後輩から廊下で教えられ、日本ハムに4位指名されたことを知った。その後、げた箱の前で取材を受けたことを覚えている。記者は1人だけだった。
プロ入り後に内野手から外野手に登録変更。2006年、25歳でレギュラーをつかみ、その年、チームは日本シリーズを制した。ヒーローインタビューで歌を歌ったり、アニメのキャラクターに扮してオールスター戦に登場したり。明るいキャラクターで人気選手の仲間入りを果たした。
その頃から同じ1980年度生まれの選手たちと並んで「松坂世代」と盛んに言われるようになった。ひとくくりにされているようで嫌だった。自身は「毎日、恐怖心と戦っていた」と振り返る。試合後は携帯電話で自分の打率をチェックしないと眠れなかった。
移籍したDeNAを13年に戦力外になり、埼玉西武へ。14年は99試合に出場し、再びレギュラーを狙えると手応えを感じた。オフは体を鍛え直し、15年の開幕を万全の状態で迎えた。それなのに、チャンスで打てない。「もっと練習しよう」という気持ちも薄れていた。「引き時なのかな」。34歳で引退した。
いまは野球解説者として活動し、全国各地でビジネスマンらを対象に年20~30回の講演をこなす。「セカンドキャリア、ものすごく充実しています」。悔いがなかったのは体も心も万全な状態だったからだ。「全力を出し切った結果なら、すべて受け入れられてしまうものなんだと野球から学びました」と森本は言う。
今年2月、仕事で訪れた沖縄県で中日・松坂大輔(37)と会った。かつて新人王や沢村賞を獲得し、米大リーグでも活躍した同世代の投手がもがいている。その姿を目の当たりにし、「かっこいいと感じた」。
「いまは『松坂世代』と言われることがありがたい。大人になったんでしょうね」と笑う。現役にこだわる松坂にはこうエールを送った。「僕たちの代表として、大いに悪あがきしてほしい」=敬称略(小林直子)
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全国高校野球選手権大会は今夏、第100回の記念大会を迎える。20年前の第80回大会では「平成の怪物」とうたわれた松坂大輔を擁する横浜が春夏連覇を達成した。その後、松坂と同じ1980年度生まれは多くのプロ野球選手が誕生し、「松坂世代」と呼ばれる。