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【タイムライン】沖縄で高校野球開幕 球場に「半旗」

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2018-6-23 9:41:10  点击:  切换到繁體中文

 

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「健児の塔」の下にあるガマで祈る仲本幸代さん(中央)と家族。「兄を亡くしました。天国からいつも私たちを見守ってくれている兄に感謝しています」と話していた=2018年6月23日午前9時36分、沖縄県糸満市、竹花徹朗撮影



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沖縄で23日、戦後73年の「慰霊の日」を迎えました。糸満市摩文仁の平和祈念公園で追悼式が開かれ、夏の高校野球地方大会も開幕。沖縄をめぐる問題について専門記者が解説しながら、1日の動きをタイムラインで追います。


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沖縄大会の開会式で整列する選手たち=2018年6月23日午前9時21分、沖縄県沖縄市、日吉健吾撮影



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沖縄大会の開会式で行進する選手たち=2018年6月23日午前9時12分、沖縄県沖縄市、日吉健吾撮影



選手宣誓「慰霊の日の沖縄から、平和への思い」北部農林・岸本主将(09:40)


高校野球沖縄大会の開会式では、北部農林の岸本宗太主将(17)が選手宣誓。「ここ慰霊の日の沖縄の地から平和への思いを込めて」と力強く告げた。岸本主将は最近になって、一緒に暮らしている曽祖父が沖縄戦を体験し、家族と一緒に逃げ惑ったという話を新聞で知ったという。「気になっていたけどずっと聞けなかった」といい、宣誓にも「平和」の文字を盛り込んだ。「自分たちのやってきたことを全て出したい」という岸本主将の初戦は、7月1日。


高校野球沖縄大会が開幕 球場に「半旗」(09:00)


第100回全国高校野球選手権記念沖縄大会が、南北北海道と並んで全国に先駆けて開幕した。晴天となったコザしんきんスタジアム(沖縄市)で、開会式が始まり、過去最多となる65校が入場行進。慰霊の日と開会式がかさなったため球場には「半旗」が掲げられた。戦後、沖縄代表が甲子園に初出場してから60年の節目の大会となる。


(解説)慰霊の日、日本軍司令官が自決したとされる日


沖縄戦などで亡くなった戦没者を追悼する6月23日の「慰霊の日」。沖縄県内の学校や役所は休みとなり、各地で慰霊祭が開かれる。正午には県内の消防署などでサイレンが鳴らされて黙禱(もくとう)するなど、沖縄中が慰霊ムードに包まれる。


太平洋戦争末期の1945年3月下旬に始まった沖縄戦では、沖縄本島中南部や伊江島などで、軍民が入り乱れた激しい地上戦が行われた。北部や離島でも多くの人が飢えやマラリアで亡くなり、沖縄県によると、戦没者数は日米の将兵や民間人ら計約20万人にのぼる。うち沖縄出身者は、県民の4分の1にあたる計約12万2千人(住民9万4千人、軍人・軍属2万8千人)を占めた。


戦後の61年、米国統治時代の立法機関である「琉球立法院」が、沖縄の日本軍司令官が糸満市摩文仁(まぶに)の司令部壕(ごう)で自決したとされる日を「慰霊の日」と定めた。


ただ、自決日は6月22日との説もあるほか、それ以降も散発的な戦闘は続いた。米軍に「保護」された民間人も、劣悪な収容所に押し込められ、多くの命が失われたといわれる。沖縄で日本軍が正式に降伏文書に調印したのは9月7日だった。(上遠野郷)


(解説)平和の礎、24万人の名を刻む


平和の礎(いしじ)は、沖縄戦の激戦地の一つ、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園内に造られたモニュメントだ。黒いびょうぶ型の刻銘版118基が扇形に並び、24万1525人の名前が刻まれている。戦後50年の1995年に建てられた。


一番の特徴は、沖縄出身者だけでなく、本土出身の日本兵や米英の軍人、朝鮮半島や台湾の出身者など、国籍や出身地に関係なく沖縄戦で亡くなった全ての戦没者名が刻まれていること。こうした慰霊碑は、世界中にほとんど例がないと言われる。


沖縄戦の戦没者は約20万人とされる。礎の刻銘数がそれより多いのは、沖縄出身者については1931年の満州事変以降の戦没者も刻銘されているため。学童疎開船「対馬丸」をはじめとする戦時遭難船や、沖縄全域が攻撃された44年10月10日の「十・十空襲」、激戦地となったサイパンなどの南洋群島でも、沖縄出身者がたくさん亡くなっている。


今年も新たに判明した58人が追加で刻銘された。激しい地上戦で戸籍などの記録が失われたうえ、戦後も米統治下に切り離されて長く混乱が続いたため、沖縄戦の被害の全体像は今もわかっていない。(上遠野郷)


孫に「戦争の怖さ、伝えなくちゃ」与那城哲雄さん(08:00)


午前8時を過ぎ、セミの声が大きくなった。ずらりと並ぶ「平和の礎」の刻銘板の前で、花やお菓子を手向ける家族連れの姿が増えてきた。


那覇市の与那城哲雄さん(79)は、孫の猪野屋望明(のあ)さん(14)と利桜(りお)さん(12)を連れて礎を訪れた。「これがいとこ。これがおじいちゃんのおばあちゃん」。刻まれた名前を指で一つずつなで、みんなで並んで手を合わせた。


サイパン生まれ。一家5人で暮らしていた4歳の時に米軍が上陸し、父と弟、妹を失った。サイパンの収容所で終戦を迎え、母と2人で沖縄に戻ると、祖父母や伯父、伯母、いとこらはほぼ全滅。自身は戦争の記憶はほとんどないが、「刻銘版のあちこちにね、全部で14人(親族の)名前があるよ。すさまじいことです」。


ここ5年ほど、孫を連れて礎を訪れている。「私らはやがてあの世に行く。戦争の怖さを、ちゃんと伝えなくちゃと思ってね」。隣で聞いていた利桜さんは言った。「大丈夫。これからも毎年ここに来るよ」


「戦後73年、軍の基地たくさん。平和な沖縄に」新垣好子さん(06:30)


南城市の新垣好子さん(78)は、沖縄戦で亡くなった父の具志堅政睦さんの名が刻まれた礎の前にござを敷き、お盆の上には水、お茶、お菓子を並べ、たばこに火を付けて立てかけた。「いつも見守っていてください、と祈りました」


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父の名前がある礎の前で手を合わせる新垣好子さん(左)=2018年6月23日午前6時28分、沖縄県糸満市、伊藤宏樹撮影



終戦当時は5歳で、父の記憶はほとんどない。母も終戦の5年後に病気で亡くなった。「父の顔は写真でしかわからない。その上、母もいない。隣近所から家族だんらんの笑い声がする時や、学校の行事に友だちの親が来る日は、とにかく苦しかった。そんな子ども時分の思い出ばかりでね」


いま「戦争は完全には終わっていない」と思っている。「戦後73年にもなって、沖縄には軍の基地がたくさんある。山のほうではまだ演習がある。孫たちが平和に暮らせる静かな沖縄にしてほしい」


兄が戦死「悲しさこみ上げる」池原ヨシ子さん(05:45)


水平線にかかる雲の上に太陽が現れ始めたころ、沖縄市の池原ヨシ子さん(89)は、平和の礎(いしじ)に刻まれた兄2人の名前の前に正座した。名前の部分を何度もなで、紙袋から出した花と日本酒を供えて、静かに手を合わせた。「毎年のことなのに、何でここに来ると悲しさがこみ上げてくるのかねぇ」


池原さんは7人きょうだいの末っ子。6番目の兄徳市さん(享年17)は那覇市の海軍司令部壕(ごう)近くで戦死し、長崎にいた4番目の兄亀助さん(享年27)は原爆で亡くなった。


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兄2人の名前が刻まれた礎石の前で手を合わせる池原ヨシ子さん=2018年6月23日午前6時14分、沖縄県糸満市、伊藤宏樹撮影



高校を卒業して結婚し、3人の子どもに恵まれた。だが、おなかに3人目の子がいるころ、夫が家を出た。20代後半から英語を学び、米軍嘉手納基地で43年間、タイピストとして働きながら子どもたちを育てたという。


「寂しかったけど、とにかく働くしかなかった。私が健康でいられるのは兄たちのおかげ。戦争がない、平和な世界であってほしい」


陸上自衛官有志が慰霊(05:00)


空が少し明らんできた午前5時すぎ、平和祈念公園(糸満市)の中で一番の高台に立つ「黎明(れいめい)之塔」に、制服姿の陸上自衛官約40人が現れた。一団は一言も発さずに花を手向けると、石碑に一斉に頭を下げた。


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黎明之塔に花を手向ける陸上自衛隊第15旅団の隊員たち=23日午前5時2分、沖縄県糸満市摩文仁



先頭に立つのは陸自第15旅団(那覇市)の原田智総旅団長。集まったのはあくまで「有志」で、前身の第1混成団が沖縄に置かれた1973年以来続く「私的な参拝」という。


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黎明の塔に花を供える陸上自衛隊第15旅団の隊員ら=2018年6月23日午前5時1分、沖縄県糸満市、伊藤宏樹撮影



黎明之塔は、沖縄戦を戦った日本陸軍の沖縄守備軍「第32軍」司令官の牛島満中将らの慰霊碑だ。戦いに殉じた指揮官である一方、司令部を首里から多くの住民がいた南部の摩文仁(まぶに)に撤退させて持久戦を続けたため、住民の犠牲を増やしたとも言われる。このため、牛島中将の碑を現役自衛官たちが制服姿で参拝することには異論もあり、インターネットなどで議論になることもある。


ただ、2回目の参加という井筒太介3等陸佐は「黎明之塔だけ訪れるのではないのに、そこばかり注目されてしまう」と言う。実際、隊員たちは約40ヘクタールに及ぶ広大な平和祈念公園内を黙々と歩いて回り、一般戦没者を追悼する「しづたまの碑」や、殉職した県職員らを悼む「島守之塔」などにも花を手向けた。「あくまで戦没者たちを追悼したい。今日も静かに手を合わせました」


早朝から犠牲者悼む


「慰霊の日」は、太平洋戦争末期に激烈な地上戦が展開され、組織的戦闘が終わったとされる日だ。


沖縄県糸満市の平和祈念公園にある、沖縄戦の戦没者らの名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」には、早朝から、多くの人が訪れ、犠牲者を悼んだ。


沖縄戦は1945年3月末に始まった。4月1日には米軍の本島への上陸が始まり、当時の県人口の4人に1人にあたる県民12万人以上が犠牲となった。日米の軍人を合わせると、死者は20万人に上るとされる。



 

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