小西悠二郎さんは現在、山岳部顧問を務める傍ら、野球部でノックバットを握ることもある=2018年5月16日、三重県四日市市
三重県立四日市高教諭の小西悠二郎さん(38)はスポーツ新聞の記者として、プロ野球の最前線で取材していた異色の経歴を持つ。前任の名張西高では野球部監督も務めた。「日本シリーズの取材より、監督として臨んだ三重大会の方が100倍楽しかった」と笑う。
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大阪府出身。小学生の頃は強豪の硬式野球チームでプレーした。だが、当時は身長140センチと低く「プロ野球は無理」と思い、中学は勉強に打ち込んだ。大阪・星光学院高で野球を再開するが、「初戦敗退が続き、一生懸命にはなりきれなかった」と悔いを残した。
実家が新聞販売所ということもあり、スポーツマスコミを目指して早大に進学。2002年に報知新聞に入社し、プロ野球担当記者となった。
一流選手に密着する仕事は刺激的だった。ヤクルト担当時代、実績十分だった古田敦也選手が、結果を求めてフォームもバットも変え続けた姿勢に驚いた。売り出し中だった青木宣親選手は「打ちまくっているのに、素人の僕にも打撃について聞いてきた」。
高校教師への思いが芽生えたきっかけは、身長167センチでエースに上り詰めた石川雅規投手だった。「石川選手も高校で軟式野球にしようか迷ったけど、硬式に挑戦したと聞いた。背が低かった僕も結果はどうあれ、野球に一生懸命打ち込めば良かったと思った」
プロ野球担当の後、内勤に異動したのを機に、大学の通信教育で教員になる勉強を始めた。11年に会社を辞めて、三重県の教員採用試験に合格し、12年から名張西高に地理歴史の教員として赴任した。
2年目から野球部の指導を始め、14年秋からは1年間、監督も経験。指導者としては、しっかり勉強させてから練習を行ったり、体を大きくするため、ひたすらごはんを食べさせたりした。「コツコツ一生懸命取り組む力を身につけてほしかった。社会に出ても、その応用ですから」
記者時代の04年、プロ野球再編問題を取材した。過酷な取材競争の中、野球協約や法律を勉強し、かけずり回った。「人生で初めて必死になり、人格も180度変わった」。その経験が指導にも生きている。
今春異動した四日市高では山岳部顧問を務める。「自然の偉大さ、人間の無力さを感じ、新たな価値観に出会った」
野球部副部長も務め、練習を手伝うなど、高校野球との関わりは続いている。「甲子園は球児の一生懸命を最高に引き出してくれる。自分が高校時代にできなかったから、よりまぶしく見える。いつか甲子園で采配を振るいたい」(広部憲太郎)