山崎猛は今、車の販売や整備などの会社で保険業務を担う=2018年6月8日、前橋市富士見町小暮
身長は135センチほど。山崎猛(39)は先天性の脊柱(せきちゅう)側わん症。生まれつき背骨が曲がっている難病だった。「生まれたときからこの体が普通。ハンディとは思っていないんです」
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1996年7月22日、前橋市の群馬県営敷島球場での第78回全国高校野球選手権群馬大会3回戦。勢多農林(前橋市)3年の山崎は、記録員としてベンチにいた。春の選抜に出場した太田市商(現市立太田)に中盤で逆転を許し、4―3で惜敗。「もうこのチームでスコアをつけられないんだな」。こみ上げる涙を必死でこらえ、悔し涙を流す仲間を励まそうとしていた。
幼い頃、周囲に相手にされず、馬鹿にされることもあった。自分に自信がなかった。小学2年で野球に出会い、中学でも続け、主に二塁手としてプレーした。グラウンドは、「自分を自分らしく」表現できる場所だった。
そんな野球少年の憧れだった高校野球。硬式球は危ないと、マネジャーとして入部した。当時監督だった高橋泰誌(64)は「体のこともあったし、色々と心配だった」と、出会ったころの胸中を明かす。
そんな不安は、すぐに解消された。山崎は、誰よりも早く部室の鍵を開けた。草むしり。球拾い。道具の整備。チームを支えた。
部員たちも山崎の代わりに重い荷物を持つなど、助け合った。チームメートだった石橋悟(39)は「タケは言葉や態度の裏に相手への気遣いがあった。チームの母ちゃんというか、ムードメーカー」。
山崎は成長に伴って年々曲がった背骨に肺の片方が圧迫され、機能していなかった。身体障害5級。幼いころ、医師からは将来歩けなくなる可能性があるとも診断されていた。普段は矯正のため、上半身を締め付けるギプスを装着。動くと腰の下辺りがこすれ、あざだらけ。夏場は汗が噴き出る。それでも甲子園のベンチでスコアを付ける夢のため、一生懸命だった。だが、夢の舞台は遠かった。
敗戦から3年。弟の敏(37)は99年夏、勢多農林の左腕エースとして前年夏準優勝の太田市商を完封して雪辱。準決勝で敗れて甲子園の土を踏む夢は果たせなかったものの、大学野球を経て、投手としてプロ野球・西武に入団。今は球団のスタッフを務める。末弟の聖(33)も2002年夏、勢多農林の背番号1を着けた。今も社会人の軟式野球で投手をしている。
山崎は曲がった背骨をなおす大手術を20歳で経験した。10時間ほどのオペ。医師からは「体が耐えられないかも」と言われたが、乗り越えた。ギプスなしで生活できるようになった。その後、偶然知り合った岩手県の女性と05年に結婚。3人の娘に恵まれた。今は父の経営する車の販売や整備などの会社で働く。
「野球をしていなかったら、人とのつきあい方がわからず、このままの自分でいいとわからなかった。障害があろうと、本来は何を止められているわけじゃない。おかげで今、僕を僕として受け止めてくれる妻や娘ら家族がいます」
今春、中学1年の長女がソフトボール部に。「うれしい半面、お金や送り迎えとか、両親の苦労が今になってわかりました」。うれしそうに苦笑いした。=敬称略