サインボールを手に、笑顔を見せる杉谷拳士選手=東京都文京区、池永牧子撮影
日本ハム 杉谷拳士さん
本格的に野球を始めたのは小学2年の時です。小さい頃から両親にいろんなスポーツをたたき込まれてきましたが、一番好きだったし、母親が「甲子園が好き」という話を聞いて育ったので、最終的に野球を選びました。
帝京(東東京)では入学した時から「1年生から甲子園に行くんだ」という強い気持ちを持っていました。大会中は勝っていくうちに、(甲子園まで)あと三つ、あと二つ、あと一つ……って、どんどん気持ちがたかぶってきたのを覚えていますね。
決勝の国士舘戦で、追加点のホームを踏んだ時はものすごい気持ちが上がりました。「これで勝てる」って。甲子園は小さい頃からの夢だったので、優勝した瞬間は本当にうれしかった。勝ってマウンドに集まるのってこういう感じなんだな、と思いました。甲子園での1打席目は足が震えて、緊張しました。
準々決勝の智弁和歌山戦では、九回に逆転タイムリーを打ち、その裏に緊急登板しました。監督から「肩、回しておけ」って言われていたんですけど、地方大会でも投げていなかったので、「まさかな」って思っていたんです。行くことになって、「俺が行くんかいっ!」ってなりました。
初球が打者に当たって、1球で降板。12―13で負けて結果的に敗戦投手になりました。試合直後は真っ白。監督に怒られたけど、何を言われたかは全く覚えていません。ただ、「ああ、終わっちゃったよ」「3年生の夏、終わらせちゃったよ」という気持ちでした。宿舎に帰ってキャプテンから「お前が入ってきてチームの雰囲気が変わった」と言われた。この言葉は思い出に残っています。
正直、僕はまだ1年生で、「ここで抑えてやるぞ」っていう気持ちより、甲子園のマウンドに立てた喜びの方が大きかったです。そういう気持ちになってしまったから、いろんな方々に迷惑をかけた。1球の怖さ、重みというのを感じました。
2年生の時は春夏と甲子園に出て、新チームではキャプテンになりました。3年春は東京都大会で優勝したので、最後の夏の東東京大会は第1シードでしたし、開会式では選手宣誓もしました。
4回戦で前年の準決勝で破った関東一と対戦しました。向こうは「帝京を倒す」とずっと言っていて。5―9で負けました。最後の夏は、やりたいこともできず、あっという間に終わってしまった。
試合後に整列した時のことはあまり覚えていないのですが、「うわ、やっちまった」みたいな気持ちが強かったです。神宮球場には友達がいっぱい応援に来ていました。周りからは3年連続の夏の甲子園というのを期待されていました。むしろ、全国優勝を狙っているメンバーでしたし。
その夏は1人で甲子園に試合を見に行きました。「同級生がこんなに頑張っているなら、俺もこれから頑張らなきゃな」って気持ちになりました。そこからはもう毎日練習。高校で練習させてもらいました。
当時は社会人や大学も考えていました。でも、そこからプロになれるとは限らないし、だったら若いうちにチャレンジしようと。ドラフトの指名順位とか関係なく、入ってしまえばどうにかなると思って飛び込みました。
野球の魅力は1球で良いようにも悪いようにも全てが変わるところです。抑えれば歓声がわくし、打っても歓声がわく。やりがいのあるスポーツです。
ファイターズでレギュラーを取って、貢献していきたいというのが今の僕の目標です。高校球児の皆さんも1球、一瞬とも悔いのないように。今後の人生に生きると思って、大切にプレーしていってください。暑い夏、一緒に熱くしていきましょう。(構成・小林直子)
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すぎや・けんし 1991年、東京都出身。帝京では春夏合わせて3回甲子園に出場した。2008年秋、ドラフト6位で北海道日本ハムファイターズに入団。西武の本拠メットライフドームで打撃練習中に場内アナウンスで面白おかしく紹介され、「球界のいじられキャラ」と話題に。