阿蘇五岳に見守られて練習をする阿蘇中央の選手たち=熊本県阿蘇市、大森浩志郎撮影
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「阿蘇に元気を与える!」
主将の倉岡真聖(まさきよ、3年)は黒板に力強く記した。
熊本県阿蘇市。阿蘇五岳の山並みに臨む阿蘇中央の教室で、野球部のミーティングが開かれた。
6月20日。夏の高校野球熊本大会の抽選会を3日後に控えていた。「大会で阿蘇のために何ができるか、みんなで考えよう」
4月16日の熊本地震の本震で、部員も通学で利用していた阿蘇大橋が崩落。土砂崩れや住宅崩壊で住民が避難所にあふれた。以来、部員たちの間で「阿蘇に元気を」がテーマになった。
倉岡の呼びかけに、部員たちは考えを口にした。「大きな声を出す」「応援席が満員になるよう勝ち進む」「4年前が16強だったから、今度は8強だ」
地震で被災後、「今できることをやろう」とLINEで呼び掛け、避難所で物資を運び、掃除をした。倉岡は「当たり前のことをしているだけなのに、笑顔でありがとうって言ってもらえた」と話す。
部員たちが地域を元気にしたいと願うのは、同じように被災しながら地域に勇気を与えた4年前の先輩の姿を知るからだ。
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2012年7月12日。未明から九州北部を豪雨が襲った。阿蘇市でも家々が濁流につかり、人の命も、暮らしも奪われた。この日、阿蘇中央は熊本大会2回戦を控えていたが、延期。グラウンドには土砂が流れ込み、グラブやスパイクが流された部員もいた。
ボランティアに奔走し、泥水を家からスコップでかき出す日々。当時エースの村上智哉(21)は迷いを抱えた。「野球やってていいのかな」。それでも「自分たちにできるのは勝って阿蘇を勇気づけることだ」と奮い立たせた。2回戦、3回戦と勝ち上がり、16強の4回戦に進んだ。
そのころ、村上は、勝ち進んでも続けていたボランティアで被災者に声をかけられた。「阿蘇中央の野球を見ていると元気が出る。ありがとう」。迷いが吹っ切れた。「やってきたことは間違いじゃない」
一の宮中学2年だった倉岡は、自宅に土砂が流れ込み、避難した友人宅のテレビで4回戦の中継を食い入るように見ていた。画面の中で躍動する先輩たち。「会う人会う人『阿蘇中央すごいな』って。どんよりした空気が変わるのがわかった」
中学で軟式の全国大会に出場した倉岡には、強豪校から誘いもあったが、阿蘇中央への進学を決めた。
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今夏、部員たちは先輩の背中を追いかける。中軸の岡優誠(ゆうせい)(3年)は南阿蘇村の自宅が傾き、テントで寝る日々を送った。今も避難生活を続ける中、「いつもあいさつする避難所の方たちに勝つ姿を見せたい。地震に負けたくない」。
「元気出していこう」。練習で当たり前のようにかけあっていた言葉に重みが増す。倉岡は「自分たちが元気じゃないと阿蘇に元気なんて与えられない」。
阿蘇中央を卒業後、進学した東海大学阿蘇キャンパスで野球を続けていた村上は5月、阿蘇を離れざるを得なくなった。
地震で、暮らしていた南阿蘇村の寮が傾いた。携帯電話の明かりを頼りに逃げだしたが、寮もグラウンドも使えなくなり、熊本市内にある系列高の寮に移った。大学の春季リーグは出場辞退。悔しいが、4年前の体験から「前を向くしかない」と話す。
後輩たちにエールを送る。「今できる野球を精いっぱいやってほしい。それで地域を元気づけられたら最高じゃないか」(敬称略)(大森浩志郎、波戸健一)
■支援活動経験の球児も
朝日新聞は熊本大会に出場する63チームにアンケートを実施。地震の影響や、ボランティア参加の有無などを尋ねた。その一部を紹介する。
Q地震後、ボランティア活動などの機会はありましたか?
・グラウンド周辺の家を一軒一軒訪ね、後片付けを手伝った(必由館)
・全員で御船町のボランティアへ行った(御船)
・部員が学校に来て、炊き出しや清掃を手伝った(湧心館)
・民家のがれき撤去やゴミ処理場の仕分け作業(秀岳館)
・練習試合に益城町民を招待し、試合後は炊き出しを行った(鎮西)