「古田家譜」(分家本、竹田市立歴史資料館所蔵)。右のページに「秀忠公」の「台命」で「武門の茶法を制して」と記されている
戦国武将で茶人の古田織部(1543または44~1615)に、武家流の茶の作法を定めるように命じたのは、豊臣秀吉ではなく徳川秀忠だった――。大分県竹田市に伝わる史料に従来の通説と異なる記述があることが、古田織部美術館(京都市北区)の調査でわかった。史料は17日から同館で初公開される。
織部は、茶聖と呼ばれた千利休の高弟「利休七哲」の一人。1591年に利休が切腹した後は秀吉の筆頭茶人として活躍し、将軍となった秀忠をはじめ諸大名にも茶事を指南した。
従来の通説では、利休の没後ほどなく秀吉が織部に、町人流の利休の茶の湯を武家流に改革するよう命じた、とされていた。研究書や文学作品、映画などでも、その通説に沿って描かれた例が多い。
だが、織部の親族にあたる豊後岡藩の家老、豊後古田家の歴史を江戸後期にまとめた「古田家譜」の分家本(竹田市立歴史資料館所蔵)を今夏、古田織部美術館の宮下玄覇(はるまさ)館長(42)が調べたところ、通説と異なる記述を見つけた。
慶長10(1605)年4月5…