西本願寺から築地本願寺へ送った書状の控えをまとめた「江戸江遣書状留帳」。指をさしている先に、切りつけた浅野内匠頭を「乱心」と表現した記述がみえる=京都市下京区
「忠臣蔵」の敵役で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、1641~1702)が、江戸城・松の廊下で、浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)に切りつけられた刃傷事件直後の様子を伝える記録が、浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)でみつかった。研究所が2日発表した。専門家は、刃傷事件直後の吉良の様子を伝える貴重な一次史料の発見と評価する。
みつかった史料は、吉良家との関係が深かったとみられる西本願寺が、江戸の築地本願寺に送った書状の控えを集めた「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所の保管史料の中からみつかった。書状は元禄14(1701)年1月20日から翌15年12月24日まで、刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが記録されていた。
史料によれば、元禄14年3月14日の刃傷事件後の21日の書状で、西本願寺が事件を「不慮の儀(思いがけない事件)」と表現し、吉良への見舞いの使者を派遣するように求めた。
4月5日には「吉良殿御痛も軽ク、御食事無替事由(吉良殿、お痛みも軽く、食事も相変わることがない由)」と記したほか、「浅野内匠頭殿の乱心の様子を承りたいが、委細の様子が上申されていない」とし、事件の経緯やうわさを詳しく聞くように命じるなど事件への関心の高さを示した。さらに、元禄15年12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して「驚いたことである。言語に絶える」と表現していた。
同研究所の大喜(だいき)直彦…
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