開会の言葉を述べる「認知症の人と家族の会」の高見国生代表理事=27日午前8時53分、京都市左京区、楠本涼撮影
認知症国際会議の開会式で27日、「認知症の人と家族の会」の高見国生(くにお)代表理事(73)の講演要旨は次の通り。
認知症の丹野さん登壇、体験語る 京都で国際会議開会式
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介護とわたしたち
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私は1943年に福井県で生まれました。ところが48年に発生した福井大地震で、両親と弟、祖母を亡くしました。京都に住んでいた父の姉、おば夫婦に引き取られ、育てられました。養子縁組をしたので養母ということになります。
その養母が75歳、私が28歳ぐらいのころから認知症の症状が出始めました。症状は進み、失禁、なんでも食べる、私の顔もわからない、私に向かって「どちらさん」と聞くような状況になりました。
養父母と私たち夫婦の4人暮らしの家庭は大混乱になりました。
「もうやってられない」と思ったとき、(認知症の人を介護する)家族の集まりに顔をだしました。介護している者同士が話しあった衝撃は今でも忘れられません。自分だけが苦労している、どうして苦労しなければいけないのか、と思っていました。しかし苦労しているのは自分だけではない、もっと大変な人がいるとわかりました。それなら、もう少し介護をがんばろうかという気持ちになりました。その気持ちが「家族の会」をつくろうという気持ちになりました。
新聞記事をみて、家族の会の結成総会にたくさんの人が集まることになりました。それが80年1月。朝から粉雪が舞う寒い日でした。京都の家族だけ20人ほどと思ったら、九州から関東から全国から90人が集まることになりました。
80年に家族の会をつくったとき、私たちは世界の動きはまったく知りませんでした。しかし後で、世界でも同じころにアルツハイマー病協会が各国で誕生していると知りました。同じ時期に認知症問題に取り組む団体ができたというのは感慨深いものがあります。92年、私たち家族の会はADI(国際アルツハイマー病協会)に加盟しました。
2004年には、この同じ(京都の)会場でADI国際会議を開催しました。越智俊二さんが、この舞台で思いを話しました。越智さんは「私は認知症になって10年になる。治りたい、治って働きたい。働いて苦労をかけている妻に恩返しがしたい」と話しました。その話をきいて会場にいた人はみな泣きました。
どうして泣いたか。それまで認…