筑波大学大学院で勉強する平岡拓晃さん=筑波大で
ロンドン五輪柔道男子60キロ級銀メダリストの平岡拓晃さん(33)はいま、筑波大学大学院の博士課程でスポーツ医学を勉強中です。柔道一筋だった平岡さんが初めて本格的な受験勉強に挑み、博士課程に進んだ理由とは。「中学生レベル」だった英語を、どうやって克服したのか。聞いてみました。
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筑波大には柔道の推薦で入りました。現役選手時代に修士課程に進学したのですが、周りには大学院に進んだ柔道の先輩が割と多くいて。自分もそこで勉強しておきたいなっていう軽いノリでした。この時もそれほど受験勉強は必要ありませんでした。初めて本格的に受験勉強したのは博士課程の入試ですね。
受験のきっかけは2014年。ベトナムに柔道を教えに行ったときのことです。筑波大のスポーツ医学の先生や学生たちも一緒でした。その際に現地の大学で学生たちが発表した内容が、すごく面白かったんです。
アイフォンなどのスマホはブルーライトを出すのですが、睡眠の前にブルーライトを浴びた人は翌日、反射速度が遅れているという内容でした。これはスポーツ選手にはすごく大事で。こういうことを知っておくだけで、選手たちの試合前の姿勢が変わると思ったのです。
発表は、筑波大の学生が英語でしました。一生懸命聞いていたのですが、僕は英語が苦手で。「今なんて言ったんだろう」とすごく恥ずかしい、悔しい思いをしましたね。結局、後から発表者のもとに聞き直しに行きました。
柔道だけをやって生きてきたなかで、もうちょっと英語を覚えようとか、柔道以外の武器を身につけておこうという気持ちはあったのに、動けなかった。後悔の気持ちがありました。そして、同じ筑波大学の敷地内でこんな面白い研究をやっているのに競技だけをやるのはすごくもったいないなと思ったのです。
博士課程に進もうと決意したのですが、入学試験までは半年ほどしかありませんでした。入試は筆記問題が英語で出るんですよ。内容はスポーツ医学の専門です。それらをダブルで勉強しなくちゃいけなくて。
中学レベルも怪しい英語
英語のレベルは相当低かったです。中学レベルも怪しいくらいですね。「at」や「of」をどこにつければいいのか分からなかった。だいたいこのあたりだろう、という感じで。
最初に問題を見たとき、理解できたのは2割でした。これ、be動詞だなとか。これ、過去形だなとか。はたして自分ができるのかと不安はありました。でもここを乗り越えなきゃダメだと思いました。やりたいことにたどり着くには、しっかり学んでおかなければならない。ただ合格するだけじゃなくて、これらの知識が頭の中に入っていって、いずれ役に立っていく。そう思って勉強しました。
週2~3回、2人の先生に家庭教師をお願いしました。1人は長文問題の担当、もう1人には多様な短い文を教えてもらって。先生たちは中学レベルの文法とかではなく、「受かる勉強をしよう」と言ってくれました。過去の出題形式から、3択問題はこんな問題、最初の文言はこのように決まっている、というようにポイントを押さえて教えてくれたんですよ。
ひたすらノートに書きました。質問のパターンに応じた答えの例文を書いて、書いて。ひたすら文章をまねして、まねして。文法は、こんな形が一つのセットだよっていうのを暗記するようにしました。
あとは自分で単語帳を作って。当時はまだ現役だったので試合もあったのですが、寝る、食う、練習以外はそれをずっと繰り返してやりました。単語帳と医学事典、教科書をひたすら読みました。
最初は問題集を見ても、書いてあることさえ分からない。分からないけど、とりあえずやる。で、何がダメか聞いて、また次の問題に取り組む。単語力がついてきたら徐々に理解できるようになりました。
英語のレベルは結構上がりましたね。とことんやればできるんだなって分かりました。
メダルを取っても人生変わらず
2008年の北京五輪は初戦敗退。その時の思いを払拭(ふっしょく)するにはロンドン五輪で金メダルが必要でした。でも、銀メダルだった。この大会、柔道の日本男子は金メダルがゼロに終わりました。自分はチームで最年長だったから、責任も感じました。
五輪のあと、自分は世間からメダリストだと言われるようになりました。だけど、ただ五輪のメダリストというだけで、人を育てるような大事なこともしていないし、なにより自分が未熟だなという気持ちがありました。柔道教室で教えるときも、うまく言葉が出てこないんですよ。メダルを取っても、自分の人生が変わったわけじゃありません。だって、これからの人生の方が長いじゃないですか。
大学時代から、いつか子供たちに柔道を教えたいとずっと思っていました。その際に、ただ技術だけを教えていくのはすごくいやで。勝ち負けだけを教える指導者にはなりたくない。勝ち負けって、負けることの方が多いから。そうじゃなくて、人が成長していくのが柔道だ、社会に出たときに支えになるものが柔道だと伝えていきたい。そう考えたとき、子供たちにアドバイスができるためには、まず自分がいろんな経験をしなきゃいけないと思いました。
まず何をしたのか。階級を上げる経験をしました。そして、右ひざ靱帯(じんたい)の手術も受けてみたんです。2007年に靱帯が切れたまま、ロンドン五輪まで競技を続けていました。手術をしたあと実際に柔道の動きに戻るのにどれくらいかかるのか、それを体験しないことには子どもたちにいいアドバイスができないなと思ったんですね。
読んだ本の中に、「指導者は教育者や役者の顔以外に、医者の顔も持たないといけない」ということが書いてありました。スポーツ医学の知識を身につけていないと、選手のけがに対してトレーナーやお医者さんにただおまかせになってしまう。これまでは柔道着を着て汗をかけばよかったのですが、指導していく立場になったらアドバイスするための知識が必要です。もっと科学的なサポートがあれば選手のパフォーマンスの幅も広がっていくと考えました。だから、もっと勉強したいと思ったのです。
スペシャルオリンピックスの支援も
いまは筑波大の非常勤研究員で、安定した月収は1万~2万円。あとは年に数回の柔道教室や試合の解説、そして講演です。現役時代にもらった賞金を取り崩して生活しています。
マラソンの有森裕子さんが理事長を務める「スペシャルオリンピックス」にも参加しています。知的障害のある人がスポーツを楽しむ機会や披露する機会を増やしていこうという活動です。フィギュアスケートの安藤美姫さんや小塚崇彦さんらと一緒に、大会やイベントでスペシャルオリンピックスのアスリートと一緒に走ったり、スポーツをしたりして活動のサポートをしています。
知的障害の柔道選手、日本は少ないんですよ。もうちょっと支部が増えれば国内大会ができて、そこから世界大会に選抜されるのですが、そこまでいっていなくて。僕はスペシャルオリンピックスの指導者資格の免許を取得している最中なんです。これもすごく勉強になっています。
今はパラリンピックが注目されていますが、デフリンピックもあればスペシャルオリンピックスもあって、いろんな人たちがスポーツに関われるんだということの大切さも学んでいます。
勉強って面白い
博士課程は、柔道選手の進路としては浸透していません。入試を受けたときも、周囲から「行く必要はあるのか」という声を聞きました。でも博士号を持つことで、より幅広い助言が選手たちにできると思っています。
本当に視野が広がったんですよ、大学院に入って。あのままじゃなくて良かった、勉強して良かったっていう思いです。勉強は面白いですね。たとえば自分の背負い投げの映像をバイオメカニズムのアプローチでみると、自分が抱いていたイメージと違って、新たな発見があります。「指導者や教育者は、自分が学ぶことをやめたら教えることをやめなければならない」って言葉がすごく好きです。
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ひらおか・ひろあき 1985年生まれ、広島県出身。近畿大学付属福山高校から筑波大。柔道男子60キロ級で2008年北京五輪は初戦敗退したが、12年ロンドン五輪で銀メダルを獲得。16年に現役を引退、現在は筑波大大学院博士課程でスポーツ医学を専攻。研究テーマは「柔道選手における減量によるコンディション評価方法の検討」。(聞き手・柴田真宏)