神港学園―今治西 十三回裏今治西1死一、三塁、中村の遊ゴロが併殺くずれになる間に三塁走者池内が生還しサヨナラ勝ち。投手杉本(手前)、捕手鶴岡=1995年4月3日 阪神甲子園球場
あの春 センバツ名勝負
(1995年4月3日 第67回準々決勝 今治西5―4神港学園)
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サヨナラ負けの瞬間、崩れ落ちる投手のもとへすぐ駆け寄る姿があった。23年前の写真を見返し、神港学園(兵庫)の主将で捕手だった鶴岡一成(40)=ロッテ2軍バッテリーコーチ=はこう振り返った。
「淡々としている。悔しかったんだろうけど、十分やりきったという思いが勝ってたんでしょうね」
1995年1月17日、6千人超の死者を出した阪神・淡路大震災。「復興、勇気、希望」を掲げて直後の春、67回大会は開かれた。被災地の地元・兵庫からほかに育英、報徳学園が出場し、いずれも初戦を突破。そして神港学園が唯一、8強にまで進出していた。
今治西(愛媛)との準々決勝は延長戦へ。4―4で迎えた十三回裏、1死一、三塁。エース杉本祐樹のスライダーで注文通り詰まらせた。遊ゴロで、二塁封殺。しかし、一塁への送球がワンバウンドしてそれた。三塁走者が生還。あっけない幕切れだった。
1回戦の仙台育英、2回戦の大府(愛知)といずれも4―3で下すなど接戦をものにしていたチームの持ち味は粘り。この試合も食い下がる展開だった。
三回までに3点を先行され、打線は大会屈指の左腕、今治西の藤井秀悟を打ちあぐねていた。だが、中盤で「つなぎの四番」という鶴岡が口火を切る。
四回1死二塁、藤井の真ん中に入った球を見逃さずに左中間を破る適時三塁打。スクイズでもう1点を返して2―3に。
左ひじを気にしていた藤井の球威が終盤にきて急に落ち、九回先頭に四球を出したところで降板した。軟投派投手への代わりっぱなで、再び鶴岡。
バントの構えで球筋を見極めながらヒッティングに切り替える。打球は中前へ。二盗も決めて、二、三塁。中犠飛と適時打で一時逆転もした。杉本は18安打を浴びながら変化球を低めに集めて粘投した。主将として「みんなが力を出せた」と言える。
敗れはしたが、「被災地に勇気を与えた」とたたえられた。実は鶴岡はグラウンド外のことを「記憶が飛んでるんです」と明かす。
被災者への配慮のため中止の声も上がっていた大会の開催や、出場校が決まる瞬間。甲子園までの練習。そんな大事な場面が思い出せない。「キャプテンだからたくさん取材を受けているはずなのに。気付いたら甲子園で試合をしていた感じ」と語った。
覚えているのは震災直後だ。兵庫県高砂市の自宅にいた。ベッドで感じた大きな揺れには驚いたが、朝の練習へ行くつもりで身支度を整えた。出発直前にテレビをつけた時、被害の大きさにがくぜんとした。
チームメートの安否がわかると、自宅近くのスーパーでカップラーメンなどの食料品を家族でかき集めた。父の車や自転車などで友達のもとに届けて回った。「まずは生きていけるかどうか」。在校生に犠牲者が出ていた。避難所暮らしの部員もいた。
そんな中で野球をやることは正しいのか、自問自答を続けた。被災者から厳しい言葉を浴びたこともあった。夢の甲子園の試合前後でも、現実を見せられた。宿舎からの行き帰りは徒歩。20分の道のりで周りはがれきの山だった。「誰もしゃべらなかった。被災地であることを目と心で感じざるを得なかった」
だから、「プレーしている最中はすべてを忘れさせてくれた。不謹慎かもしれないが、甲子園だけは楽しんでいい」と思えた。
夏に向けてもチームの士気は変わらなかった。キャッチボールでも打撃練習でも、一球一球を大事にしていた。兵庫大会準々決勝で尼崎北にサヨナラ負けしたが、「力を出し切った」と言える。
複雑な思いは残る。今でも当時の仲間と集まれば、昔話に話を咲かせる。ただ震災時の話だけは出てこない。「強烈すぎたのかもしれない」という。
鶴岡は1995年ドラフト5位で横浜(現DeNA)に入団。その後巨人、DeNAを経て2016年に阪神で引退。21年間で計719試合に出場、335安打、140打点、打率2割3分5厘。「やりきった。あの経験から自分はめいっぱい生きたいと思ったし、好きな野球をやりたいと思った」。人生の分岐点だった。=敬称略(有田憲一)