ソウル五輪前年の1987年、米国のレーガン政権が北朝鮮によるテロを警戒し、関係改善を模索していたことが、30日付で公開された韓国外交文書で明らかになった。ただ、同年秋、大韓航空機がミャンマー沖で北朝鮮の工作員に爆破され、乗客ら115人が死亡した事件を防げなかった。
公開された外交文書によると、米国が打ち出した政策は、第三国での米朝の外交官接触禁止を緩和し、北朝鮮が南北間の対話再開などに応じれば、人道名目で貿易を認めることが柱だった。主導した東アジア・太平洋担当の米国務次官補の名前から「シグール構想」と呼ばれた。
韓国の全斗煥(チョンドゥファン)軍事政権は反対したが、米側は五輪開催を前に北朝鮮の孤立化を防ぎ、「おろかな行動を未然に防止できる」と説得した。外交文書によると、この構想に基づき、87年3月から6月にかけ、米朝の外交官は世界各地で少なくとも6回接触した。
米国の外交方針は中国を通じて北朝鮮に伝えられ、北朝鮮も歓迎した。だが北朝鮮は米国との二国間会談や五輪共催を要求、米国が断ると態度を硬化させた。87年11月に大韓航空機爆破事件が起きると、米は北朝鮮工作員のテロと断定、北朝鮮を「テロ支援国家」に指定し、シグール構想も撤回した。北朝鮮の工作員だった金賢姫(キムヒョンヒ)元死刑囚らが爆弾を仕掛けたとされる。
韓国政府は、情報公開法に基づき、30年を過ぎた公電など約23万ページを公開した。ただ大韓航空機爆破テロの関連文書は公開から除外された。(ソウル=武田肇)