沖縄セルラースタジアム那覇のそばには、島田をしのぶ顕彰碑がたてられている=那覇市奥武山町
第100回の節目を迎える全国高校野球選手権は23日、沖縄と南北の北海道から地方大会の幕が開く。この日、沖縄は「慰霊の日」。大会草創期の球児であり、「鉄の暴風」のなか住民保護に力を尽くした島田叡(あきら)知事の足跡が今、改めて注目されている。
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米軍普天間飛行場にほど近い沖縄県宜野湾市の嘉数中学校。慰霊の日を2日後に控えた21日、平和学習の一環で、元県高野連理事長の安里(あさと)嗣則(つぎのり)さん(78)が講演した。米軍機の轟音(ごうおん)が響く中、戦争体験を語った後に安里さんは「どうか平和を続けてくださいよ」と生徒に呼びかけた。
同県石川市(現うるま市)出身の安里さんは4歳だった1944年、農業に従事する家族とサイパン島へ移住。その直後、南洋の拠点だった同島は激しい攻防戦に巻き込まれ、姉と祖父母を失った。戦後は沖縄へ戻って野球に打ち込み、高校教員となってからは野球の指導と平和教育に力を注いだ。
そんな安里さんが尊敬してやまないのが島田だ。「戦中の沖縄で『生きろ』と呼びかけ続けた。本当に尊い人物だ」と語る。
神戸市生まれの島田は旧制神戸二中(現兵庫高校)へ進学。選手権大会の前身の全国中等学校優勝野球大会が始まった1915(大正4)年に2年生だった。この年、同校は全国大会へ出場したが、島田はベンチ入りできなかった。最高学年で主将をしたが、地方大会を勝ち残ることはなかった。
三高(現京大)や東京帝国大学へ進み、野球で頭角を現す。好打と俊足で名を知られ、大学在学中、文官高等試験の受験を見送ってまで三高野球部の監督も務めた。内務官僚になった後も、色紙には好んでボールの絵を描いた。
愛知県警察部長や大阪府内政部長を経て45年1月、米軍の攻撃が本格化しつつあった沖縄の知事に着任。前任者は「政府との協議」を名目に上京したまま戻らず、香川県知事へ転出した。死を覚悟して着任した島田は、県内外に約20万人の住民を疎開させて食糧確保に奔走。同年6月26日、沖縄県糸満市の摩文仁(まぶに)の壕(ごう)を出て消息を絶った。
島田は戦後も「島守」と慕われ、母校と沖縄をつなぐ役割を果たしている。
今月16日、東大硬式野球部の浜田一志監督(53)は那覇市内で講演した。「部がめざす文武両道を地で行く大先輩。島田さんのように地域を大切にする人材になってほしいと願い、部員には『沖縄を知らずして官僚になるべからず』と言っている」
同部は2015年から毎冬、那覇市の首里高校でバッテリー約20人がキャンプをする。島田の存在が橋渡し役となり、安里さんらの献身で実現した。同校の同窓会館で寝起きし、地元の球児と練習したり、勉強を教えたりする。最終日は、島田が戦火の中で身を寄せた壕を見学。島田をまつる摩文仁の島守の塔に必勝祈願をして迎えた15年春、東大は4年半ぶりに勝利した。
兵庫高校は来春、島田と運命をともにした荒井退造・沖縄県警察部長の母校、宇都宮高校と交流戦をする。兵庫高校は毎年、修学旅行で沖縄を訪れており、OBらは沖縄戦跡の遺骨収集に参加している。
100回すべての大会に出場した「皆勤校」の兵庫高校は8月5日、甲子園の開会式で橋本響(ひびき)主将(17)が入場行進に加わる。橋本主将は「絶やさず野球を続けてきた先輩たちに心から敬意を表したい。島田さんが絶望的な中でも投げ出さずに力を尽くしたのは、野球をしていた体験が大きく働いたのだと思う」。(狩野浩平、編集委員・永井靖二)