高知商は全国高校野球選手権記念高知大会の決勝で明徳義塾を破り、12年ぶりに23回目の出場を決めた。選手権大会が第100回の節目の年に野球部創部から100年を迎えた古豪の歴史を振り返る。
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高知商野球部が創部された1918(大正7)年は第1次世界大戦のさなかで、日本のシベリア出兵があったころだ。国内では15(大正4)年に第1回全国中等学校優勝野球大会が大阪府の豊中グラウンドで開かれ、野球人気が高まっていた。県内でもすでに県立第二中(現・安芸)や高知工に野球部が誕生していた。
高知商は20年の第6回大会の四国大会に県勢として初参加し、初戦で敗退した。その後も四国大会に出場したが、甲子園の道は遠かった。実力のある選手もおり、38年に岩本章が東京巨人軍(巨人)に入団。移籍を経て戦中に本塁打王を獲得した。
終戦後の47年、旧満州(中国東北部)から引き揚げてきた松田昇が監督に就任する。翌年、春の選抜と夏の第30回大会に初出場し、いずれも8強入り。50年の選抜では県勢初の準優勝を果たすなど「強い市商」の基礎を築いた。
「オヤジ」と慕われた松田は多くの語録を残している。「一生懸命やって自分で自分をええ選手にするんじゃ」「自分の考えと違うてもチーム内で役割が決まったら真っ先に立って全力をつくせ」「男はなー、どんなことでも全力を尽くして負けたらそれまでじゃ」
松田は選手の心身を鍛える一方で、控えの選手に相手校のデータを収集させて分析するなど緻密な野球も展開した。70年代後半には明徳義塾(当時・明徳)の野球部長に就任し、同校を強豪校に導く。
高知商は57年春の選抜で決勝に進み、王貞治(巨人)がエースだった早稲田実(東京)に惜敗した。58年夏の第40回大会では森光正吉(阪神)がノーヒットノーランを達成した。この時期以降、県内は高知商に高知と土佐を加えて3強時代と呼ばれていく。
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同校の野球部史によると、60年代は7年連続で夏の甲子園に出場できず、低迷の時期が続いたとしている。
新たな飛躍は谷脇一夫が75年に監督に就任してからだ。「鬼のようだ」といわれた猛ノックでチームを鍛え上げ、春夏ともに快進撃を見せる。
78年夏の第60回大会は、高知商が全国制覇に最も近づいた大会だ。左腕森浩二(阪急など)を擁しPL学園(大阪)と決勝で対戦。高知商は2点リードで迎えた九回裏、制球の乱れた森が打たれ、逆転負けを喫した。NHKの関東地区の視聴率(ビデオリサーチ調べ)は50・8%に達した。
この大会で控え投手だった中西清起(阪神)は2年後の80年春の選抜で、エースとして再び甲子園に戻り、決勝で帝京(東京)を破り春夏を通じて初の甲子園優勝を果たした。
その後も、97年夏の第79回大会で藤川球児(阪神など)と兄順一のバッテリーが甲子園を沸かせたが、近年は台頭してきた明徳義塾に押された。2000年代に甲子園に雄姿を見せたのは、06年夏の第88回大会のみだった。
16~17年にかけて就任した監督の上田修身と部長の梶原大輔は「打力重視」を掲げ、筋力アップによる体作りと打撃練習に力を入れてきた。強力打線は26日の高知大会決勝で実力を発揮。150キロ近い速球が武器の明徳義塾のエース市川悠太に14安打を浴びせ、10得点と完璧に打ち崩した。
8月5日開幕の夏の甲子園で、高知商は全国の強豪を相手にどう戦うのか。古豪の復活に期待がかかる。=敬称略(森岡みづほ、加藤秀彬、柴田悠貴)