1923(大正12)年9月1日の関東大震災から95年。震災から教訓を学ぼうと、名古屋市で愛知県との意外な「接点」などを紹介する企画展が開かれている。29日まで。
「名古屋に関東大震災の犠牲者の慰霊碑や供養堂が残っているのを、ご存じですか?」。名古屋市千種区の名古屋大学減災館。減災連携研究センター客員教授の武村雅之さん(66)が、来館者に語りかけた。
減災館は地震災害などについて市民が学べる拠点として2014年にオープン。映像と振動台で巨大地震の揺れを再現できる装置もあり、5万人以上が見学に訪れた。日替わりで減災の研究者らの講演もある。
現在は特別企画展「関東大震災と愛知県」が開かれている。会場には被害状況や避難の様子を伝えるパネルが並ぶ。当時の記録から関東大震災と愛知県の「接点」を紹介することで、震災への備えを見直してほしいという。30年にわたって震災研究をしている武村さんが企画を監修した。所蔵する関東大震災関連の貴重な歴史資料も展示されている。
武村さんは「大災害の度に、『初めて』や『これまでにない』と言いがち。だが、過去から学べる教訓は少なくない」と訴える。
マグニチュード7・9の関東大震災の死者・行方不明者は約10万5千人。26年に当時の内務省社会局がまとめた「大正震災志」下巻には、愛知県は9月2日午前2時に震災の情報を得ると、知事が直ちに幹部職員を招集して救援方針を決め、救援物資の調達や救護班の準備を始めたと記されている。武村さんは「各県とも現地の県人救済が優先事項だったのだろうが、国から何か言われる前に積極的に動いている。現在の感覚でもかなり迅速に対応していたと言えるのではないか」と話す。
愛知県内には、9月末までに約15万人の被災者らが避難した。名古屋駅前に設置された応急の宿舎では足りず、市内の寺院や教会のほか、一般家庭も被災者を受け入れたとされる。
武村さんは各地に残る関東大震災の慰霊碑などの所在地も調べ、名古屋市の日泰寺(千種区)や照遠寺(東区)にも確認された。多くの市民の名前が寄付者として刻まれている碑もあり、避難者の受け入れに積極的だったことがうかがえるという。武村さんは「1891(明治24)年の濃尾地震の記憶がまだ生々しかったのでは」と話す。
特別企画展は9月29日まで。火~土曜の午後1~4時(祝日、第2・4火曜、9月4~6日は休館)。18日は午後1時半から武村さんの講演がある。問い合わせは名大減災館(052・789・3468)。
震災に耐えた建造物 明治村に実物
愛知県犬山市の博物館明治村では、関東大震災に耐えた建造物を間近に見ることができる。
「日本赤十字社中央病院病棟」は、震災傷病者の治療現場になった。れんが造りの本館は地震で倒壊したが、木造の病棟は被害を免れ、火災地域からも離れていた。「帝国ホテル中央玄関」は、米国の建築家フランク・ロイド・ライトの設計。震災当日は建物の落成披露式だった。報道機関や各国の在日大使館の臨時事務所にも使われた。
震災直後に尋ね人の貼り紙がびっしりはられた写真が残る「東京駅警備巡査派出所」。隅田川にかけられた橋が焼け落ちる中、多くの人の避難に貢献したことで「人助け橋」と呼ばれた新大橋の一部も保存されている。
特別企画展では、震災を今に伝えるこれらの建造物についても解説。9月には、武村さんの著書「減災と復興 明治村が語る関東大震災」(風媒社、税別2200円)も発売される。「実際に現地にあった建物を見ることで、リアリティーを持って震災を実感できる。せっかくの貴重な建物なので、防災教育により積極的に活用してほしい」と武村さんは話す。(佐藤剛志)