3月10日の東京大空襲から74年。あの夜、何があったのか。Q&Aでおさらいします。
焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る
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Q 東京大空襲はいつ起きたの?
A 1945年3月10日未明、東京の下町一帯が米軍の空襲を受けて、すさまじい火災が起きた。東京は42年から45年まで約130回の空襲を受けたが、この日の被害が最もひどい。だから、この日が「東京大空襲」と呼ばれている。
Q どんな様子だったの?
A 作家の早乙女勝元さんらがつくった「東京空襲を記録する会」の資料などによると、米軍の爆撃機B29約300機が、上空から炎をあげて火災を起こす「焼夷(しょうい)弾」約1700トン分を2時間半、落とし続けた。現在の墨田、江東、台東区はほぼ壊滅した。東京全体で27万棟が焼けて、約100万人が家を失った。
Q 何人亡くなったの?
A 東京都の戦災誌では約8万3千人とされている。ただ、川に飛び込んで亡くなり、海に流された人など、確認できない死者がもっといるかもしれないんだ。早乙女さんたちの資料は、墨田区の都慰霊堂にある遺骨の数などから「推定10万人」としている。子どもやお年寄り、女性がたくさん亡くなった。
Q 民間人が暮らす地域を攻撃することは、国際法に違反していないの?
A 大空襲の直後、日本政府はスイス政府を通じて米国に抗議した。だが、米軍はその後も日本各地で一般市民を巻き込む無差別爆撃を重ねたんだ。安倍内閣は2013年5月、大空襲について「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものだった」との考えを示したよ。
Q 大空襲によるけが人や遺族はどうなったの?
A 2007年、被害者たちは謝罪と賠償を求めて国を裁判で訴えた。しかし、13年に最高裁で敗訴が決まった。この裁判で、国は「戦争被害は国民が等しく我慢すべきだ」という戦争被害受忍論を主張した。それが補償の壁となってきたんだ。
Q 被害者を救う手立てはないの?
A 遺族たちはいま、お金などでつぐなってもらえるしくみをつくる運動をしている。でも高齢の被害者が次々に亡くなっていく。17年には、空襲でけがをし、生存する身体障害者に限り、50万円の一時金を支給する法案の素案が超党派の国会議員でできたが、まだ国会提案に至っていないんだ。(2015年3月7日、朝日新聞朝刊「いちからわかる!」を再構成)