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福島県の沿岸部、双葉町を南北に走る国道6号線からJR双葉駅へ向かう交差点を曲がると、かつての町の商店街の入り口にさしかかる。今は「帰還困難区域」のゲートに遮られて、一般車両がその道を通ることはできない。
東京電力福島第一原発から3キロほど離れたこの場所に、「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が書かれたアーチ状の看板があった。
その看板が撤去されて3年になる。
町内に掲げられていた原子力広報塔=2015年3月、福島県双葉町、根岸拓朗撮影
原発標語は五つあった
この場所にあった原発PR看板「原子力広報塔」は、1988年3月に町がつくった。前年の87年、そこに掲げる標語を町は町民に公募した。
応募者数178人、応募総数281点。その中から5点が入賞作に選ばれた。
「原子力郷土の発展豊かな未来」(最優秀賞)
「原子力夢と希望のまちづくり」(最優秀賞)
「原子力豊かな社会とまちづくり」(優秀賞)
「原子力明るい未来のエネルギー」(優秀賞)
「原子力正しい理解で豊かなくらし」(優秀賞)
町は88年3月25日、5点の作者を表彰した。「3月25日」は、1878(明治11)年に電灯が公の場で初めて点灯されたことを祝う「電気記念日」だった。
この表彰式で、当時の岩本忠夫町長から表彰状を受け取った少年がいた。
当時、双葉北小学校6年生だった大沼勇治さん(43)。後に有名になる「明るい未来のエネルギー」の標語を考えた。
原子力広報塔について説明する大沼勇治さん
あのころのことを大沼さんはよく覚えている。
標語の公募は学校の宿題だった。原子力を頭につけ、推進する標語を三つ考えてくるようにと先生に言われた。
「双葉はすごく田舎でした。たまに母親にいわきや仙台に連れて行ってもらうと、映画館や駅ビルみたいなのがあって全然違う。原発と一緒に町が発展すれば、将来は双葉にも新幹線とか特急が何本も来て、人口もどんどん増えていく。そんな明るい未来をイメージしました」
リニアモーターカーの開発がたびたびニュースになり、つくば万博が開かれた後だった。「21世紀」という言葉が盛んに口にされてもいた。「僕たちの将来は明るい」と思える空気があり、原発とイメージが重なった。
暮らしの中に原発が当たり前にあった。親戚が原発で仕事をし、その会社で働く人たちがよく家に来て、将棋や釣りをして遊んでくれた。東電の社宅から通う同級生も多かった。
自分が考えた標語が優秀賞に選ばれたことは、遊びに行った友達の家で知った。その家のおばあちゃんに「おめでとう」と声をかけられ、町の広報誌に入賞者として自分の名前が出ていることを教えられた。しばらくすると、町から表彰式に招待する封書が届いた。
その表彰式の写真は今もアルバムにはさまれている。町長から表彰状をもらう12歳の丸刈りの少年。母が撮影したもので、表彰式の招待状や式次第も、母がその後もずっと保管していた。2005年に建て替えるまであった家では、表彰状を額に入れて飾っていた。
双葉町の岩本忠夫町長(当時)から表彰を受ける大沼勇治さんが写った写真=1988年3月25日撮影(大沼さんのアルバムから)
1988年に一つ目の広報塔が商店街前にできたとき、表と裏に掲げられたのは最優秀の2点で、大沼さんの標語は使われていない。だが91年に二つ目の広報塔が町役場前にできると、標語の入れ替えがあり、大沼さんの標語「明るい未来のエネルギー」が商店街前に掲げられた。
国道近くの、町の玄関口といえる場所だ。大沼さんが双葉中学校3年生のときだった。
広報塔は夜にはライトアップされ、クリスマスのころにはイルミネーションの飾りもつけられた。
町民大会や海開きのテント、道路沿いの電光掲示板、電話帳の表紙……。「明るい未来」の標語は町のいたるところで使われた。
大沼さんの自宅は標語の近くにあった。町の人たちが、自分の考えた標語の下をくぐる光景を見るたびに、誇らしい気持ちだった。
このときは、21年後にこの看板の前で自分が「原発反対」を叫ぶことになるとは、想像さえできなかった。
原発について発信を続ける大沼さん。自らの発信が「反原発」や「左翼」とみられることもあるといいますが、本人は「そうではない」と話します。原発のそばで育ち、原発事故を間近で経験したからこそ、伝えたいことがある――。大沼さんの思いに迫りました。
■どんな時代だっ…