高校時代、夢を追った球児たち。卒業後も、指導者として、同じ夢を追い続けている人もいる。
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神奈川県の小田原城北工業高のグラウンドで、部員たちが内海直也監督(32)を囲む。
内海監督は高校時代、厚木西高で活躍。1年秋、3年春の県大会で4強に入り、シードが当たり前という雰囲気が生まれ、「それに力が追いついていった」。第1シード校として出場した3年夏は準々決勝で敗れたが、「かけ声ではなく本当に甲子園に行こうぜという一体感があった」。
卒業後は大学に進み、旅行会社に就職。5年間働いたが、忙しい生活の中、体調の悪さを感じることが出てきた。「体力がある自分でも、体を動かさないとダメなんだと知った」。仕事を辞めて大学に戻り、体育の教員免許を取った。
初任校の小田原城北工業高は、約70人がベンチ入りを競った母校とは異なり、部員は6人、連合チームからのスタート。工業高校ならではの検定試験に臨むため、朝や放課後に講習を受ける部員も多く、実戦練習もままならない。でも、素質のある打者もおり、何より「やめろ」というまで黙々と練習するような真面目な部員ばかりだった。
「高校の時は自分たちは強いんだというプライドがあったが、ここに来て、たとえ技術が低くても野球への思いが低いわけではないと、初めて知った」。部を活性化させるべく、技術レベルに合ったメニューを考え、遠征合宿も始めた。
指導者になって痛感した道のりの厳しさ。それでも、子どもたちと夢を追える喜びをかみしめる。
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上溝高の平林明徳監督(51)も、高校野球のために教員に転じた一人だ。
長野県の実家は、南安曇農業高の真裏。小学生時代、県の決勝に進出した姿に憧れ、同校へ。2年時は県8強に進出したが、「自分がどんなに野球が好きか気づかず」、大学卒業後は国家公務員になった。だが、誘われてクラブチームのコーチを務め、進学後に都道府県大会や関東大会で活躍する教え子たちに触発された。「これを仕事にしたい」と、教員免許を取得した。
神奈川を志望したのは、教員になることを考えていた1998年、神奈川大会で横浜高の試合を観戦したのが契機だ。スタンドの熱気とともに、何点取っても気を抜かずに攻め続ける同校選手の迫力。全国屈指の出場校数を誇る神奈川高校野球の独特の雰囲気に魅せられた。
今、目指すのは「対話の野球」。部員と向き合い、部員同士も相手を思いやる環境作りに励む。内野手から投手にコンバートした選手が、夏に敗れた後、「先生のために勝ちたかった」と言っていたことを知った時には、通じるものがあったのかと感謝した。
「人間形成に取り組むことの難しさ……。でも、別の世界にいた自分だからこそ、野球は社会に通じるものだという思いを大切に」。選手13人で夏に挑む。
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平塚江南高から東大に進み、六大学野球でプレーした小林航監督(33)は、厚木東高の部員たちに野球だけでなく勉強も教える。
部活の後、週1、2日。免許を持つのは数学だが、英語や国語も守備範囲。部員の中には、校内模試で200番台から10番台まで上がった人も。山本優君(2年)は、勉強会で取り組んだ教科で軒並み成績が上昇。「笑える雰囲気で教えてくれて、部活の後でも疲れは感じない。高校野球は厳しくて勉強の時間が取れないと思ったけど、今は不安がない」。東大の見学にも行き、監督に続きたいと意識するようにもなった。
小林監督自身は、練習で疲れて寝てしまう日があっても復習を大切にする自分なりの学習習慣を築き、大学での野球につながった。「野球だけを教えるなら、自分よりすごい人もいる。真の文武両道を目指すことで中学生に志望してもらい、部の勝利につなげていけたら」(木下こゆる)