昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日、聖路加国際病院(東京都中央区)で亡くなられた。急性肺炎と診断され5月から入院していた。100歳だった。戦時中は旧日本軍の大本営参謀などを務め、軍紀の乱れなどをただす発言をしたことが戦後明らかになったほか、戦後はオリエント史の研究者として知られた。
三笠宮さまの皇位継承順位は5位だった。2015年12月、記録上皇族方で初めての100歳の百寿を迎えた。大正天皇の四男で、昭和天皇の弟。9人の孫がいる。3人の息子がいたが、長男・寛仁(ともひと)さま、次男・桂宮さま、三男・高円宮さまはすでに亡くなっている。
今月22日はご結婚から75周年を迎えた。病室は看護師らによって飾り付けがされ、妻の百合子さまや娘さま方が病室に集まってお祝いしたという。
2012年に心臓の手術を受けたが、その後はお住まいの宮邸で妻の百合子さまとともに静かに過ごしていた。今年5月16日、急性肺炎で聖路加国際病院に入院。心臓の動きが低下するなど徐々に体調が悪化していた。
1915年12月2日、大正天皇の四男として誕生。学習院初、中等科を経て、陸軍士官学校、陸軍大学を卒業した。35年に三笠宮家を創立し、41年10月、故高木正得(まさなり)子爵の次女百合子さまと結婚した。
戦時中は、支那派遣軍参謀、大本営陸軍参謀などを務めた。中国での日本軍の規律の乱れや残虐行為に対して軍内で反省を促す声をあげるなど、毅然(きぜん)とした姿勢を貫いていたことが、戦後明らかになった。
戦後、47年から3年間、東京帝大文学部研究生としてヘブライ史を学び、歴史学者としても活動した。54年に日本オリエント学会設立に参加し会長に。79年には中近東文化センター設立に加わり総裁を務めた。東京芸大客員教授などとして教壇に立ち、中東の遺跡調査にも携わった。「紀元節復活反対」を主張し、歴史学者としてテレビにも出演した。