鈴木蓮君が飯塚海翔さんからもらったボールには「辛いときこそ笑顔」と書かれている=大仙市堀見内の市営仙北球場
高校野球・秋田修英の鈴木蓮君(3年)は中学3年の秋、進学を考えていた修英の試合を見ようと、ジャージー姿で球場へ足を運んだ。試合前、球場の外にある自動販売機の前で突然声をかけられた。
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「うちに来るの? キャッチボールしようよ」
それが2学年上の先輩だった飯塚海翔(かいと)さんとの最初の会話だった。自分より20センチは背が高くて、何だか怖かった。でも、誘ってくれたのがうれしくて、すぐに「はい」と返事をした。
ボールを受け、また返す。それが5分間ほど続いた。「投げ方がきれいだなぁ」。褒められたのがうれしかった。
多くの部員が寮で暮らす秋田修英。鈴木君も入学式後に寮に行くと、飯塚さんがいた。「不安なことある?」
優しく尋ねられ、「朝起きたら、ごはんをならべた方が良いですか」と心配をぶつけた。「そんなに厳しくないからね」。不安が少し和らいだ。
ノックでも、フェンスにぶつかりながら捕球する。ガッツあふれるプレーと面倒見の良さで、飯塚さんは後輩たちに慕われていた。夏の大会が終わり、飯塚さんが部を引退した後も、2人で焼き肉を食べに行ったり、プリクラを撮ったりした。きょうだいが妹1人だけの飯塚さんにとって、2人はまるで兄弟であり、親友のようだった。
翌年の正月休み。飯塚さんと2人で遊ぶと、鈴木君がいすに掛けていた上着のポケットに気づかないうちに手紙が入っていた。飯塚さんは口にすると照れくさいことを、手紙にして渡すことがあった。
「頑張ればちゃんと結果が出るから」
鈴木君は走り込みが嫌いで、電話で冬の練習のつらさをこぼしたことがあった。その励ましだった。
飯塚さんは卒業後、神奈川県の大学に進んだ。一人暮らしの部屋には鈴木君や部員と撮った写真を飾っていた。鈴木君は、そんな先輩にスランプの時やつらい時はLINE(ライン)を送り、助言をもらった。
「悲しい報告がある。昨日、飯塚が事故で亡くなった」。その年の6月、練習試合が終わったあとのミーティングで、監督が部員に告げた。大学の野球部の練習に行く途中の事故。まだ18歳だった。
頭が真っ白になり、すぐにLINEを送った。「飯塚さーん!」「何してますか?」。でも、「既読」はつかなかった。
卒業直後にもらった便箋(びんせん)の手紙を何度も読み返した。涙が止まらなかった。
「蓮が甲子園でプレーする姿を見るのを楽しみにしてる。たくさん食っておっきくなれ~。海翔より」
結びは、笑顔の顔文字が手書きで並んでいた。鈴木君は今も、その便箋を財布に入れて持ち歩いている。
2番打者としてチームを支えた昨夏は、準々決勝で惜敗。飯塚さんとの約束を果たせなかった。唯一無二の目標に向け、追い込みの練習に汗を流す。
あの日の出会い。感謝の気持ち。書き慣れない手紙を書いたら、2600字にもなった。
「かけがえのない存在だった飯塚さん。シャイな一面もありますが、本当に人思いで優しく、元気のある人でした。いつまでも一緒にいたかったのですが、今はもうできません。けど、必ず飯塚さんは見ています。最後まで諦めないで頑張りたいです。飯塚さんのために甲子園!」