核兵器廃絶を求める2団体が広島、長崎で開いていた原水爆禁止世界大会が9日、閉幕した。もともとは一つの大会だったのが、組織の対立で半世紀にわたりほぼ別々に実施してきた。核兵器禁止条約の重要性を訴えるのは両大会とも同じで、被爆者やNGOからは歩み寄りを求める声が上がった。
【特集】核といのちを考える
「過去の経過をどう乗り越えるかが双方に問われている」。4日、広島市であった原水爆禁止日本協議会(原水協)の集会で、異例の場面があった。壇上で、もう一方の原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の元事務局長、福山真劫(しんごう)さん(71)があいさつした。
世界大会の初開催は1955年。前年の3月に太平洋のビキニ環礁で米国が水爆実験を実施。漁船「第五福竜丸」が被曝(ひばく)し、全国に原水爆禁止運動が広がった。だが、1960年代、ソ連が再開した核実験の評価を巡って対立し、分裂状態が続いた。
「核兵器廃絶」の目標は同じで、核禁条約の推進については両大会で触れている。条約推進の中心となったオーストリア外務省のハイノッチ軍縮・不拡散局長は原水協側の会議に参加。その後の会見で「条約は市民の安全保障のためにある。政治的な意見の違いは脇に置くべきだ」と話した。
核兵器廃絶国際キャンペーン(I(アイ)CAN(キャン))国際運営委員の川崎哲(あきら)さん(49)は原水禁側で講演した。ICANは様々な歴史や分野をもつ団体からなる。相当な妥協や調整も要するため、原水禁大会の事情も分かるという。「だからこそ、結束できた時、日本政府に対する訴求力も高まるはずだ」
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)事務局次長の藤森俊希さん(74)は原水協側に参加。「共闘」を訴えた福山さんの言葉に、「多くの被爆者も同じ思いだ」と受け止めた。広島では今年、分裂している被爆者団体間で統一を探る議論があった。藤森さんが住む長野県では、地元の原水協、原水禁が核兵器廃絶を求める署名活動で協力している。「二つの大会に参加する人たちが目指す方向性は同じ。少しずつ垣根を越えていく必要がある」(清水大輔)