市川忠男さん=2014年3月、東京都国立市
東京都立国立高校野球部の監督として、1980年夏の全国高校野球選手権に出場した市川忠男さんが12日、亡くなった。84歳だった。母校の国立を率いて80年の西東京大会で優勝し、甲子園へ。春夏通じて都立校として初の甲子園出場という快挙だった。全国選手権では1回戦で箕島(和歌山)に敗れたが、その活躍ぶりは「都立の星」とたたえられた。当時の主将だった名取光広・朝日新聞社編集担当補佐が、市川さんの思い出をつづった。
「都立の星」市川忠男さん死去 都立国立高野球部元監督
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忘れられない場面があります。1980年7月31日、東京・神宮球場。第62回全国高校野球選手権西東京大会決勝で、私たち国立高は、駒大高と対戦しました。
投手戦で0―0のまま試合は進み、九回表。先頭打者が安打で出塁して、打席が回ってきた私に、市川忠男監督から伝令が来ました。「バントかな」と思ったら、指示はまったく正反対の「初球に(ヒット)エンドラン。思い切っていけ」。終盤の1点勝負、手堅く攻める手もある中で、市川監督は強攻策を選びました。
言われるまま私は、初球を思い切って振りました。内角の直球だったはずです。右中間の二塁打となって無死二、三塁に。市川監督の読みが、強気が、その回の2得点につながり、私たちの道は、甲子園につながったのでした。
私の同期で、西東京大会、甲子園を一人で投げ抜いた市川武史投手は、市川監督を「世界で最も怖い人」と言います。いまでも言います。「入部してから怒られ放し。怒られない選手なんていなかった」
市川監督が、母校国立高の監督に就任したのが1969年。社会人野球を経て家業の洋服店を継いだ後のことです。就任したての市川監督は、練習でにこにこしている後輩たちに驚いたといいます。すぐに私語を禁止し、「集中しろ」「笑うな」と叱り続け、「ほめない男」と呼ばれるようになった、と自身でしばしば語っていました。
市川監督は、49年夏に2年生の主戦左腕として東京大会ベスト4となった実績があります。後輩たちにも「少しでも長い夏を過ごしてほしい」と思っていたに違いありません。
「あのとき、もしおまえがボテボテの内野ゴロでゲッツー(併殺)だったら、いまの俺はないよ」。市川監督の言葉が、耳に残っています。細い目を、さらに細くした笑顔も。強気の勝負をかけて、私たちを導いてくれた市川監督は、国立高監督を私たちの卒業後も約10年、務めました。その後も一橋大学野球部の監督を8年、さらに、国立中央リトルシニアの監督も歴任しました。
長い長い野球人生、後輩たちを叱咤激励し続けた時間だったはずです。(名取光広〈朝日新聞社編集担当補佐 80年夏の国立高野球部主将〉)