奈良の都・平城京(710~784)の外れで、奈良時代末~平安時代初め(8世紀末~9世紀初め)に、四方を道路に囲まれた約120メートル四方の1区画を32分割した小規模な宅地跡がみつかった。奈良市埋蔵文化財調査センターが、1月31日発表した。専門家は人口増加に対応するため1区画をそれまでの16分割から32分割に再開発した可能性が高いとみており、古代日本の都市計画の変遷をたどる上で重要な発見として注目している。
【特集】奈良を歩こう
平城京は、碁盤の目状に走る道路で区画され、皇居や現代の霞が関にあたる官公庁街である平城宮から南へ走る朱雀大路を境に、東の左京、西の右京に分けられていた。これまで平城京の宅地割りは1区画を16分割したものが多くみつかっており、さらに小さな32分割は794年に遷都した京都の平安京で始まったと考えられてきた。
センターは昨年7月から、平城京の南端とされる九条大路北側の敷地(奈良市西九条町4丁目)を調査し、昨年10月までに奈良時代の下級役人が暮らしていたとみられる住宅跡を複数発掘した。その後、さらに南側に隣接する2700平方メートルを発掘したところ、住宅跡一つにつき井戸跡が一つあることなどから、1区画が32分割されていたことがわかった。センターは年代の異なる建物跡が重なってみつかり、①奈良時代後半(16分割)②奈良時代後半~奈良時代末(16分割)③奈良時代末~平安時代初頭(32分割)の3期にわたって、宅地割りの変遷が明らかになったとみている。
32分割の宅地割りは1区画を東西に4分割、南北に8分割した「四行八門制(しぎょうはちもんせい)」と呼ばれる平安京の宅地割りと似ている。田辺征夫(いくお)・大阪府文化財センター理事長(考古学)は「平安京で始まったとされている都市計画が、先行して平城京で始まっていたことが具体的に想定できる」と話す。
16分割された宅地面積は、現代で言えば250~280坪ほどだ。32分割はその半分の面積になる。舘野和己(たてのかずみ)・奈良女子大学特任教授(日本古代史)は「平城京が栄えるにつれて農民や商人、職人など庶民の移住が進んだ。人口増に対応するため、より小さな宅地を造ったのでは」とみる。
現地説明会は2月3日午前10時と午後1時半の2回。小雨決行。駐車場はない。問い合わせは奈良市埋蔵文化財調査センター(0742・33・1821)へ。(宮崎亮)