夫を亡くし、現場にお参りする女性。この日は、夫が好きだった漫画雑誌をお供えした=18日、兵庫県尼崎市、井手さゆり撮影
107人が死亡したJR宝塚線(福知山線)脱線事故から25日で11年。兵庫県尼崎市の現場につくられる慰霊碑の名碑に犠牲者の名前を刻むか、否か、遺族は選択を迫られている。生きた証しとしての名前をめぐり、揺れる遺族の思いをたどった。
「どこにも名前を刻まんといて」。2月上旬、兵庫県伊丹市の喫茶店で、女性(46)はJR西日本の社員に告げた。慰霊碑に設けられる犠牲者名を刻む名碑に、夫(当時37)の名前を入れるのか。尋ねられていたことへの答えだった。
夫に会いに現場には月2回ほど行く。乗っていた1両目が突っ込んだマンション1階に手を合わせると、その姿が浮かんで見える。「おーい、来たで」「こっちは冬でも寒くないぞ」。そんな会話を心の中で交わす。
夫はいつも自分と一緒にいるが、命が最後まであった現場では、存在をより強く感じる。ただ、名前を石に刻むと、ずっと現場に縛りつけてしまう気がする。「私が死んだら、墓を建てずに散骨してもらい、一緒に事故から離れ、風のように自由になりたい」
システムエンジニアだった一つ年上の夫。穏やかで、5年間の結婚生活を通じ、ほとんどけんかをしたことがない。単身赴任を終え、新築マンションで同居を始めたばかりだった。「新婚当初より幸せ」。そんな生活を事故が奪った。
棺の中の傷ついた姿が突然、目の前に浮かぶようになり、事故が原因の心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。それまでしていたデザインの仕事が手につかなくなり、辞めた。
食べることが好きだった夫の思いを生かそうと、フランス料理や洋菓子作りを学び、飲食店で働いたが、長く続けられなかった。心の治療のため診療所に通うようになったのは、8年が過ぎてからだった。
事故から10年の日、追悼慰霊式の会場でギターの献奏をした。事故に区切りをつけたいと考えたものの、期待したほどの心境の変化は訪れなかった。