水俣病資料館で語り部を務める胎児性水俣病患者の永本賢二さん。生まれた地区に造られたチッソの専用港がスクリーンに映し出された=3月8日、熊本県水俣市
■終わらない水俣病 胎児性患者は今
『わが学舎(まなびや)の窓辺に近く あけくれまわるベルトのひびき』
熊本県水俣市の市立水俣第二小は、水俣病を起こしたチッソの工場(現JNC水俣製造所)の真向かいにある。校歌には工場の様子が描かれ、チッソ関連社員の子どもも多く通う。
7月、校歌を歌う児童の声が、市立水俣病資料館の講話室に響いた。資料館で語り部を務める胎児性水俣病患者の永本賢二さん(57)は、母校の後輩の姿に目を細めた。校歌は講話のお礼だった。
永本さんの父もチッソで働いていた。加害と被害が居合わせる水俣。人々は幾重にも分断され対立した。
講話は少年時代の話を中心に進んだ。5歳で歩けるようになったが、小学校で歩き方をからかわれた。文房具店で「補償金で買えていいね」と言われた。心を慰めたのは、家から見えたチッソ専用港のクレーン。物言わぬ、たくましい姿にいつも話しかけた。
語り部を続けて15年目。「チッソを恨んだことはありません」と繰り返してきた。「母校の子たちに、それぞれの父親を嫌いになってほしくない」と思うからだ。ただ、本当は「言葉通りじゃない。チッソには、いろんな気持ちが混ざり合っている」と漏らす。
2011年3月、チッソは水俣病の補償責任を残し、営利事業を子会社JNCに切り離した。チッソの清算・消滅を可能にする流れの一つで、永本さんは反対していた。
「水俣病から逃げる会社であってほしくない。しっかり患者に向き合って、必要な補償をしてほしい。今も、チッソは市民の誇りなんだから」
■「お母さんが大変だから」と施設へ
水俣市中心部の住宅街にあるケアホーム「おるげ・のあ」。胎児性患者の金子雄二さん(61)は、ここで患者4人と暮らす。好きな新潟の酒をコップに半分入れ、晩酌を楽しむ。ヘッドレスト付き車椅子に座ったまま、ストローでゆっくりと。水俣病による障害は重く、一つの言葉も一息に言えない。40代で歩けなくなった。
施設は、ついのすみかを求める患者と家族らの願いを受けて14年春に完成。「(自宅で)一緒だと、お母さんが大変」。そう考えて入居した。
父はチッソの取引先で、他の身内はチッソで働いていた。母のスミ子さんが三男の雄二さんを身ごもっていた1955年5月、父は劇症型の水俣病で全身をけいれんさせ、24歳で死亡した。次兄は生後1カ月足らずで亡くなり、母と長兄は患者と認定された。
生後、魚を食べる前から症状のあった雄二さんに、水俣病を研究する故原田正純医師が出会い、胎児性水俣病の存在を立証した。
病を背負い、幼子を抱えてスミ…