您现在的位置: 贯通日本 >> 资讯 >> 社会(日语) >> 正文

臨終の間際「息子をお願い」 胎児性水俣病、母の苦闘

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2016-10-23 13:51:43  点击:  切换到繁體中文

 

写真・図版


水俣病資料館で語り部を務める胎児性水俣病患者の永本賢二さん。生まれた地区に造られたチッソの専用港がスクリーンに映し出された=3月8日、熊本県水俣市


写真・図版


写真・図版


写真・図版


■終わらない水俣病 胎児性患者は今


『わが学舎(まなびや)の窓辺に近く あけくれまわるベルトのひびき』


熊本県水俣市の市立水俣第二小は、水俣病を起こしたチッソの工場(現JNC水俣製造所)の真向かいにある。校歌には工場の様子が描かれ、チッソ関連社員の子どもも多く通う。


7月、校歌を歌う児童の声が、市立水俣病資料館の講話室に響いた。資料館で語り部を務める胎児性水俣病患者の永本賢二さん(57)は、母校の後輩の姿に目を細めた。校歌は講話のお礼だった。


永本さんの父もチッソで働いていた。加害と被害が居合わせる水俣。人々は幾重にも分断され対立した。


講話は少年時代の話を中心に進んだ。5歳で歩けるようになったが、小学校で歩き方をからかわれた。文房具店で「補償金で買えていいね」と言われた。心を慰めたのは、家から見えたチッソ専用港のクレーン。物言わぬ、たくましい姿にいつも話しかけた。


語り部を続けて15年目。「チッソを恨んだことはありません」と繰り返してきた。「母校の子たちに、それぞれの父親を嫌いになってほしくない」と思うからだ。ただ、本当は「言葉通りじゃない。チッソには、いろんな気持ちが混ざり合っている」と漏らす。


2011年3月、チッソは水俣病の補償責任を残し、営利事業を子会社JNCに切り離した。チッソの清算・消滅を可能にする流れの一つで、永本さんは反対していた。


「水俣病から逃げる会社であってほしくない。しっかり患者に向き合って、必要な補償をしてほしい。今も、チッソは市民の誇りなんだから」


■「お母さんが大変だから」と施設へ


水俣市中心部の住宅街にあるケアホーム「おるげ・のあ」。胎児性患者の金子雄二さん(61)は、ここで患者4人と暮らす。好きな新潟の酒をコップに半分入れ、晩酌を楽しむ。ヘッドレスト付き車椅子に座ったまま、ストローでゆっくりと。水俣病による障害は重く、一つの言葉も一息に言えない。40代で歩けなくなった。


施設は、ついのすみかを求める患者と家族らの願いを受けて14年春に完成。「(自宅で)一緒だと、お母さんが大変」。そう考えて入居した。


父はチッソの取引先で、他の身内はチッソで働いていた。母のスミ子さんが三男の雄二さんを身ごもっていた1955年5月、父は劇症型の水俣病で全身をけいれんさせ、24歳で死亡した。次兄は生後1カ月足らずで亡くなり、母と長兄は患者と認定された。


生後、魚を食べる前から症状のあった雄二さんに、水俣病を研究する故原田正純医師が出会い、胎児性水俣病の存在を立証した。


病を背負い、幼子を抱えてスミ…




 

新闻录入:贯通日本语    责任编辑:贯通日本语 

  • 上一篇新闻:

  • 下一篇新闻:
  •  
     
     
    网友评论:(只显示最新10条。评论内容只代表网友观点,与本站立场无关!)
     

    注册高达赢取大奖!

    09年2月《贯通日本语》杂志

    《问题餐厅》聚焦女性话题 焦俊

    日本第11届声优大奖结果揭晓 演

    东野圭吾作品《拉普拉斯的魔女

    松岛菜菜子裙装造型 “美到令人

    广告

    广告