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真珠湾の「語り部」、今年は語れず 遺族高齢化重く

作者:佚名  来源:asahi.com   更新:2017-12-9 9:58:36  点击:  切换到繁體中文

 

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弘利さんの手記や道司さんの写真、胸像。最期に身につけていたと思われるはちまきと同じものを母かくさんが残していた。いずれも昨夏までは展示されていた=静岡県長泉町、清水大輔撮影


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76年前の12月8日、日米が開戦した。きっかけとなった真珠湾攻撃で戦死した弟を思い、兄が記した手記。静岡県長泉町の施設で毎年8月に公開され、戦争で肉親を失った悲しみを伝えてきた。その「無言の語り部」が今夏は公開されなかった。遺族は高齢化し、戦時を語れる人はおろか、残された「もの」さえ行き場を失おうとしている。


真珠湾攻撃に関するトピックス


手紙50通、母を思い爆撃機へ 真珠湾攻撃きょう76年


――私は一日も軍服を着たことがない。何か申し訳ない。そんな気がいつも脳裏からはなれない。


そう手記は始まる。長泉町で8月15日を含む3日間開かれる「戦争の悲劇伝えたい展」で、遺品の一つとして展示されてきた。


書いたのは宇津木弘利さん。国鉄で機関士として働き、町議も務めた。


2009年に「伝えたい展」が始まった際、弘利さんは主催団体の一つである町戦没者遺族会に4枚つづりの手記を持ってきた。


手記や弘利さんの親族らによれば、弘利さんの弟道司(みちじ)さんは海軍通信学校を卒業。真珠湾攻撃に参加し、空母「赤城」から爆撃機で飛び立った。日本側の未帰還の29機のうちの一機だ。


――特別の配慮で海軍最初の2階級特進となって当時は名誉この上ない事と戦死を悲しみながら母を慰めて来た。


手記が書かれたのは、母のかくさんが91歳で亡くなった4年後の1986年とみられる。かくさんの言葉も書き残されている。


――「飛行機が落ちて行く時、あと10秒の命と思った時どんな気持ちだったろう。長い時間だったろうか。短い時間だったろうか」


13年の展示で、弘利さんは来…




 

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