試合球を手に笑顔を見せる衆院議員の小泉進次郎さん=2018年4月9日、松本俊撮影
衆院議員で自民党筆頭副幹事長の小泉進次郎さん(37)は、かつて高校球児だった。白球を追い続けた日々で、いったい何を得たのだろうか。
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甲子園、やっぱり夢の舞台です。高校生の頃は、甲子園出場を現実的な夢として見ることができました。
〈関東学院六浦(むつうら、神奈川)では二塁手としてプレーし、副主将も務めた。3年時は春の県大会でベスト8に入った。〉
うちの野球部は月曜休みで、平日は朝練があるので1時間目から6時間目まで授業中に寝て体力温存。そして放課後の練習で全てを燃焼させました。
二塁手はセンターラインの中では地味かもしれないけど大事なポジション。カバーに入ったり、バッテリーのサインを見て外野手にも目配りしたり。一球一球すべてに関わっている。いいプレーをいいプレーと見せないようにするというのを一番に思っていました。高校野球って試合中にうまくなるし強くなる。一勝するたびに自分たちが強くなっていく実感がありました。
僕は「松坂世代」の一学年下ですが、松坂大輔投手(37)がいた横浜(東神奈川)と練習試合をしたことがあります。センターを守っていた松坂投手の強肩を見て、「別の生き物だ。とんでもないのがいる」と。僕らの世代の最高の選手は松坂投手。ドラマを見させてもらったんですよ。1998年の第80回記念大会のPL学園(南大阪)との延長17回や明徳義塾(高知)との準決勝、決勝のノーヒットノーラン。準決勝で「さあ出るぞ」と腕のテーピングをはがすシーン。強烈だったね。
〈シード校として臨んだ高校最後の夏、関東学院六浦は5回戦、ベスト16で公立校に敗れた。〉
うちは主将がエースで4番。実力でも一歩抜けていた彼が僕たちに甲子園への夢を見せてくれた。監督も考えていたと思う。「この代を逃したら甲子園はない」と。
強く覚えているのは、引退して野球漬けの生活がなくなったときの、ぽっかりと心に穴が開いたような感覚。夏の大会を終えて引退したとき、いかに自分が野球が好きで大切なものだったか気付く。そして、自分が何をすればいいか分からなくなる。まずは髪を伸ばしたり遊んだりするんです。それをしてもね、穴は埋まらない。
球児の皆さんに伝えたいことは「迷ったときはフルスイング」。後悔は色々あるでしょうが、「あのとき三振を怖がったかもしれないな」っていうのは一生覚えている。そういう後悔はね、残さない方がいい。全てにおいて言えるのは「迷ったら前へ。迷ったら全力で」。うまくいってもいかなくても、思い切ってやれば結果がどう出ても納得できると思う。
〈大学で野球を続けることも考えたというが、新たな道を選んだ。〉
僕は海外へ目が向いたんです。自分の思いを燃焼できる物事が。僕にとっての高校野球は「自分の全てを懸けて燃焼する」というその方法を教えてくれた経験です。
それが今は政治。全部懸けても、この世界はやりがいがある。選挙は自分の体力も言葉も泉が枯渇するくらいまで全部を出し切ります。その基礎となるのは体力です。野球部でなければ体力が培われなかったと思う。僕は最初の選挙が夏で、本当に暑い中、よく思い返しました。「ああ高校野球の時に比べれば、やっていけるな」って。
一緒に野球をしていた仲間は特別な関係です。選挙や僕の日々の政治活動を核となって支えてくれるメンバーもいる。虚像ではない「等身大の小泉進次郎」を分かってくれているのが学生時代の仲間だから。そういう仲間がいるのは僕にとって大きな支えです。
高校野球を通じて経験したからこそ、今も全てを懸けるということができる。一言で言うなら何かな。「高校野球は人生の先生である」か。(聞き手・辻健治)
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こいずみ・しんじろう 1981年神奈川県横須賀市生まれ。関東学院六浦(神奈川)から関東学院大へ進学。卒業後、米国コロンビア大大学院で修士号取得。父・純一郎氏の秘書を経て、2009年総選挙で初当選。復興政務官、自民党農林部会長などを歴任し、昨年8月から自民党筆頭副幹事長。同10月の総選挙で4選。