2008年9月のリーマン・ショックと1997年秋からの日本の金融危機。これまでは「対応が迅速だった米国、遅かった日本」という図式で日本側に反省を促す論調が多かった。ただ改めて日米を比較すると共通した失敗が多く、米国政府が犯した重大な判断ミスも見えてくる。日本の金融当局で対応にあたった3人の証言から、危機の教訓を探った。(編集委員・原真人)
遅れた公的資金投入
元日本銀行理事で現在、日本証券金融の会長を務める増渕稔氏は、97年の金融危機時は危機対応の担当局長だった。日米の共通点として、次の二つをあげた。
①大手金融機関が危機に陥ってもそこに資金を出す人が現れなかったこと②住宅価格や地価は下がらない、という思い込みがあったこと、だ。
元金融庁長官の五味広文氏は「危機当初は、日米どちらも金融機関への公的支援を出し惜しみしてしまった。公的資金制度を設けるのは政治的にたいへん難しい。だからどちらも最初は業界への奉加帳方式などで切り抜けようとした。それではすまなかった」と言う。
日本では97年11月の北海道拓殖銀行や山一証券の破綻(はたん)の連鎖で市場が一気に凍り付いた。危機感を抱いた政府は公的資金制度の検討に入り、98年3月、大手行など21行に計1・8兆円の公的資金(第1次)を資本注入した。
しかし、不良債権の大きさに比べるとその規模はあまりにも小さく、注入額も各行が横並びだった。効果の限界を見透かされ、市場の動揺を完全には抑えられなかった。
98年秋には日本長期信用銀行が危機に陥り、その処理を巡り与野党が激しくぶつかる「金融国会」となった。難産の末、一時国有化制度や公的資金注入制度を盛り込んだ法律ができた。10月に長銀が、12月に日本債券信用銀行が破綻(はたん)し、一時国有化された。
より規模が大きい公的資金(第2次)も投入せざるをえなくなり、99年3月、大手15行に7・5兆円が資本注入された。97年秋の危機勃発から1年半を要していた。
一方、米国では2008年10月3日、緊急経済安定化法(金融救済法)が成立。政府が7千億ドルの公的資金で不良債権を買い取ることを決めた。リーマン・ショックから18日後のことだ。
これだけ見ると迅速な対応のようだが、すんなり事が運んだわけではない。混乱の末、にっちもさっちもいかなくなって決定したのだ。
最初の法案は9月29日に下院で否決された。これにニューヨーク株式市場が強く反応。史上最大の下げ幅を記録した。株価急落はすぐ世界の市場に波及した。
まずいと思った米議会はすぐに修正法案を上院で可決させ、そして下院で改めて成立させた。
市場に追い込まれ、結果的には短期間に公的資金制度を作ったものの、最初からうまくやったわけではなかった。
そもそも米財務省と中央銀行の連邦準備制度理事会(FRB)は、危機に陥った金融機関を大手金融各社に救済させようとしたり、奉加帳方式で資金を集めようとしたりしたが、いずれも頓挫。結局リーマンは破綻し、世界金融危機にまで事態を悪化させてしまった。「日本の失敗を見ているのに教訓を生かせなかった」(五味氏)。
銀行批判強かった日本
日米の違いは何だったのか。
「(株式市場などから資金を調…