駅前に巨大カボチャがドーン! 福岡県東部の豊前市にあるJR日豊線の三毛門(みけかど)駅。改札を抜けると、直径1・5メートル、高さ1・2メートルのカボチャのオブジェが出迎える。その名も三毛門カボチャ。全国的に知られるカボチャの産地ではないのに、なぜこの地にカボチャなのか?
駅のそばに「三毛門南瓜(かぼちゃ)の里」という建物がある。三毛門カボチャを生かした地域おこしのため、地元有志が2007年に発足させた三毛門南瓜保存会(約50人)の活動拠点で、加工や販売もしている。
会長で「三毛門南瓜今昔物語」の著者でもある元中学校長の猫田信廣さん(78)によると、三毛門カボチャは熟すと茶褐色になり、重さは2・5~5キロ。一般的なカボチャに比べデンプンが少なく、甘さは控えめだ。淡泊な味だが、皮が硬く煮崩れしにくい。
実はこのカボチャ、海外から日本に伝わった最古の品種だ。現在も栽培を続ける地域は、全国にほとんどないという。
「物語」などによると、1500年代半ば、ポルトガル船がカンボジア産のカボチャを豊後国(大分県)に持ち込んだ。大友宗麟(1530~87)に献上されたのをきっかけに栽培が始まり、三毛門地区にも広まった。1928(昭和3)年には昭和天皇即位の大嘗祭(だいじょうさい)に15個が献上され、献上品を栽培した畑には記念碑が建った。戦中戦後の食糧難の時代にも重用されたという。
現在は保存会のメンバーら市内の約30戸が、約3ヘクタールで栽培。年間約1トンが保存会の下に集まり、そのまま販売されるほか、焼酎やワインに加工されている。
宗麟ゆかりの大分県臼杵市でも昭和の初めまで栽培されていたが、途絶えていた。三毛門カボチャを「宗麟南瓜」として復活させようと、同市と大分県関係者が「里帰り実行委員会」を設立。委員会と保存会は、ともにこのカボチャを生かして交流し、地域の活性化に生かそうと、07年に協定を結んでいる。
なぜ三毛門地区では栽培が続いてきたのか。親から引き継いだ10アールほどの畑で栽培している保存会の初代会長、宮崎求馬さん(83)は「天皇陛下に献上し、記念碑まで建てたカボチャを絶やすわけにはいかなかった」と話す。体の続く限り作り続けるという。
宮崎さんは93年、三毛門小の校長から依頼を受け、児童らに栽培の指導を始めた。同小の児童らは現在、保存会の指導を受け、大嘗祭の献上カボチャを栽培した畑で春に苗を植える。秋には収穫し、スイーツにして食べるなどしている。
保存会は、戦後間もなく作られ地域で親しまれていた「三毛門南瓜音頭」を、新たな振り付けで復活させた。ワインや焼酎などの特産品も開発。三毛門にカボチャを広めた大友宗麟配下の武将緒方鎮盛(しげもり)にも光を当てようと、焼酎は「鎮盛」と名付けた。
豊前市教委は昨年、保存会の一連の取り組みが、地域の文化にも影響を与えていることを評価。歴史的な種を保存伝承していこうと、三毛門カボチャを市の天然記念物に指定した。
保存会の活動を継承する動きもある。地元の若手が作る実行委員会は、12年からハロウィーンの時期にステージイベントや仮装で盛り上げる「カボウィンパーティー」を開いている。
猫田さんは、長年の子供たちへの指導や保存の取り組みが、三毛門カボチャを大切にする心を地域の若者たちにも育んだのではないかとみて、こうした取り組みの広がりに期待している。(小浦雅和)
16世紀半ば ポルトガル船により大分に伝わる
1928年 昭和天皇即位の大嘗祭に献上
37年 大嘗祭献上の記念碑を建立
46年 「三毛門南瓜音頭」ができる
93年 三毛門小学校で栽培指導開始
95年4月 JR三毛門駅前にオブジェ完成
2007年5月 三毛門南瓜保存会が発足
8月 「三毛門南瓜音頭」が復活
10月 保存会と宗麟南瓜の里帰り実行委が交流協定
12月 ワインが完成
09年 焼酎「鎮盛」誕生
10年 「三毛門南瓜今昔物語」を発刊
11年 加工場が三毛門駅前に完成
12年 カボウィンパーティー始まる
18年 豊前市が天然記念物に指定