1920年(31歳)ごろ、東京・田端にて=室生犀星記念館提供
■文豪の朗読
《室生犀星「抒情小曲集」 朝吹真理子が聴く》
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井伏・川端…文豪たちの自作朗読、ソノシート用に録音
ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの
二十代前半のときに書かれた詩を、七十二歳の犀星が朗読している。この録音の翌年に、犀星は没する。多くのひとが知っている、「抒情小曲集」の巻頭、「小景異情」のなかの一編が、まるで知らない遠さをもって響いていた。
作品として世界に差し出された言葉は、書き手から離れて、一編の詩として、屹立(きつりつ)して存在しはじめる。一度世に放たれた詩句は、書いた人からも遠いものになると実感する。書き手であった犀星が読んでいる作品の距離と、すべての読み手の距離とは、等価なものであると、耳にとどめながら思った。
犀星の発する声のリズムにはつまりがあって、聞いていて心地良いものではない。重たく、文字をたしかめるように、音がくちから発せられる。うたうようなものからは遠い。リズムにはのらない、という決意のようなものを感じる。どの詩も、リズムにあえてひびをいれてゆくようだった。詩編をながめながら聞いていると、さきの詩句がわかるだけに、かえって不安になる。一文字ずつを屹立させ、書きつけられた意味を蘇(よみがえ)らせる読みかたは、たどたどしく、きこえる。感情を突き放したような、投げすてるような声でもあった。
声の背後で、時報のような音もかすかにきこえる。夏の軽井沢で録音されたという当時の空気が梱包(こんぽう)されている。それが楽しい。
録音当日の様子が、少しだけ垣間見られる文章が残っている。録音嫌いの犀星が、絞り出すような声で二十の詩編を朗読し終えたところで、録音している人に「念のため」にもう一度朗読するよう頼まれる。
犀星は、「詩というものは、同じ感情で二度読むことはできない」と断る。ほんとうに、詩は一回かぎりのものだと、聞きながら思う。くちびるにのぼるたび、言葉は生まれなおしている。(作家)
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1960年代に発表された朝日新聞が所蔵する文豪たちの自作の朗読を、識者が聴き、作品の魅力とともに読み解きます。