「警鐘」として使っていたボンベと元区長の与儀正仁さん=沖縄県北谷町、小玉重隆撮影
沖縄県各地の集落に、古びたボンベがつり下がっている。戦後間もない時期から、時刻を知らせる鐘として鳴らされたが、当時、米兵らによる女性への暴行が頻発したため、危険を知らせる「警鐘」の役目も果たした。ボンベは、今につながる県民の苦難の歩みを物語る。
特集:沖縄はいま
沖縄本島中部、嘉手納基地に近く、米軍関係者が多く住む北谷(ちゃたん)町砂辺。地区の公民館の駐車場に、長さ約1・5メートルの黒っぽいガスボンベがつり下げられている。郷土史に詳しい与儀正仁さん(83)は「これを打ち鳴らし、基地に連れ込まれそうになった女子中学生が難を逃れました。救いの鐘です」と語る。
与儀さんによると、1955年に米兵の犯罪から身を守ろうと、基地で働く地元住民が米軍の使用済みボンベを調達して設置したという。その年、石川市(現・うるま市)で6歳の少女が米兵に暴行、殺害された事件が起き、県民に強い衝撃を与えた。今のボンベは与儀さんが区長だった60年代に取り換えた「2代目」だ。
沖縄戦での旧日本軍の組織的戦闘は45年6月23日に終結。住民らは米軍が各地に設けた収容所に送られた。集落への帰還はその年から始まった。米軍が接収した土地の返還は、地域によって時期が異なり、砂辺では54年から段階的に行われ、住民も徐々に戻ってきた。
米軍基地や駐屯地が近くにあった地域の住民らは、米兵の暴行におびえて暮らした。48年、当時の知事が米軍の参謀次長宛てに、一部の米軍人が「昼夜の別なく」「毎日の如(ごと)く」各地の集落に侵入して危害を加えるとして、対応を求める要請書を出している。
住民たちは各地で自警団をつくり、集落の入り口などに鐘を据え、米兵の姿を見ると打ち鳴らした。沖縄市戦後文化資料展示室の入り口には、市内でかつて使われたボンベの鐘がある。
担当職員によると、物資に乏しい戦後、打ち鳴らす物がなく、ボンベが鐘代わりに利用された。防犯以外にも、時間を知らせたり集合の合図を送ったりする目的で使った地域もあったという。鐘は沖縄本島や離島の各地に設けられたが、全体の数は把握されていない。
47年9月のある夜、沖縄市安…
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