「夏の高校野球が今年100回大会を迎え、誠におめでたいことであります」
静かに話し始めた「語り部」は、「しかし、私は素直に喜ぶことができないのであります」と語気を強めた。
「昭和15年、16年ごろの球児たちの泣き声が聞こえてくるからであります」
熱弁をふるったのは岐阜県教育委員長も務めた吉田豊さん(92)。朝日大学(岐阜県瑞穂市)の公開講座「高校野球を語る~第100回大会を記念して」(5日)の最後に特別ゲストとして登壇した。吉田さんは終戦直後に岐阜高で顧問教諭をするなど、高校野球に長く携わった。
「旧制岐阜中学(現・岐阜高)で私は柔道部だったが、野球部と仲が良かった。素晴らしいボールを投げる左腕投手がいた。彼は私に『俺は将来、職業野球に進もうと思っている』と夢を語っていた」
その夢はかなわなかった。
「戦時色が濃くなると、競技会で手榴弾(しゅりゅうだん)投げという種目が始まった。純粋な若者たちは一生懸命に取り組むんです。あんな重いもの(硬式球の約3倍とも言われる)を投げ続けたら、どうなるか」
ある日、そのエースは「吉田、肩が痛い。腕があがらんのや」と言った。戦況はさらに悪化し、1941(昭和16)年に中等野球大会は中止となった。「彼は予科練(海軍飛行予科練習生)となり、特攻隊員として戦死した。生きていれば、後世に名を残す選手になったことでしょう」
朝日大野球部長の小川信幸・元県岐阜商高監督や山下智茂・元星稜高(石川)監督らが語り合う講座はとても有意義だった。その最後に用意されていた大切なメッセージ。「私は語り部となり、野球をやれなかった若者がいたことを今の人たちに伝えたい」。吉田さんは言った。
次に節目を迎えるとき、何人の語り部が大切な話を聞かせてくれるだろうか。先人たちの声を聴き、後世につないでいく作業に終わりはない。
それは高校野球に限った話ではない。スポーツで言えば東京が五輪開催地になったのは2020年が3度目だ。40(昭和15)年に予定されていた大会は、やはり戦争で中止になっている。
スポーツを楽しむことができる平和に感謝し、あの過ちを二度と繰り返さない日本でありたい。高校野球100回大会イヤーの終わりに、誓いを新たにしたい。(編集委員・安藤嘉浩)