1915(大正4)年に始まった夏の高校野球が今年、100回目を迎えた。ただ、この節目までの間には一度断絶した歴史がある。
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「あってはいけないことが起きた」。その時期を知る一人、イオン創業者の岡田卓也さん(92)は言う。
郷里は三重県四日市市。後に四日市高になる旧制富田中で捕手だった。部員も少ない「弱い部だった」が仲間とボールを追った。
だが、時局が緊迫度を増す。4年生の41年、地方大会が途中で取りやめになった。日米開戦。「敵の国技などやっている場合か」。配属将校から言われ、部員らはバックネットへ突進し、自分たちで引きずり倒した。大会は42年から45年まで途絶した。岡田さんは43年、早稲田大学へ進学するが、敗戦半年前に旧陸軍に召集された。中学の同級生は8人ほどが特攻で亡くなった。
郷里は空襲で焼け野原になった。復員した岡田さんは学生をしながら、家業の「岡田屋呉服店」(イオンの前身)を継いだ。富田中野球部は間もなく復活。グラウンドの土を掘り起こし、一からの再建だった。岡田さんも野球道具を提供して後輩を支えた。
55年、第37回大会。戦後10年で四日市高が初めて夏の全国大会に進んだ。中学時代にバッテリーを組んだ水谷貞雄さんが監督になっていた。復活した夢の舞台に後輩たちが立った。岡田さんは紡績会社などを訪ね歩いて寄付を集めた。「戦時中の空襲で焼けた街が大いに盛り上がり、野球部が光になった」。初出場、初優勝。岡田さんはそれを甲子園のスタンドで見届けた。「本当に奇跡だった」
「選手の活躍が、郷里の人たちにとって大きな励ましとなった。これからもずっと地域を盛り上げる存在であって欲しい」と未来の球児たちに期待を寄せる。(広部憲太郎)