辺野古地区で話を聞く被爆者たち=7日、沖縄県名護市、上田幸一撮影
原子爆弾と沖縄戦。75年前に始まった太平洋戦争の末期に凄惨(せいさん)な体験をした人たちが、手を取り合い始めた。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のメンバーが今月初旬、組織としては初めて沖縄を訪れ、沖縄戦の被害者らと交流した。当時を知る人が少なくなるなか、被害への国家補償や体験の継承について話し合い、今後の協力を確かめ合った。
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今回の訪問は、日本被団協結成60周年に合わせたもので、広島や長崎の被爆者約40人が5~8日、沖縄を訪ねた。ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)や、米軍普天間飛行場の移設をめぐり反対する住民らが座り込みを続ける名護市辺野古地区などをめぐった。
6日には那覇市で、被団協メンバーと沖縄戦体験者らが意見交換するシンポジウムが開かれた。戦没者らに黙禱(もくとう)を捧げた後、沖縄国際大学の石原昌家名誉教授が、多くの民間人も巻き込まれた沖縄戦の実情について説明。「地獄のような戦場となった。本土に米軍が上陸していたら同じことになっていたはずだ」と語った。
シンポでは、戦争被害への「国家補償」が主な議題となった。被爆者と沖縄戦被害者は戦後、いずれも国家としての責任を問い続けている。しかし国は「戦争被害は国民が等しく耐え忍ばなければならない」との受忍論を主張し、補償を拒んできた。
沖縄戦をめぐっては、国は旧日本軍に協力した人を「戦闘協力者」と認定し、見舞金を支払ってきた。しかし一般の民間人への補償はないため、沖縄戦で負傷した住民や遺族らは2012年8月、国を提訴。訴えは一審の那覇地裁で棄却されたが、現在も福岡高裁那覇支部で審理が続く。
原告弁護団の瑞慶山(ずけやま)茂団長は「沖縄では住宅地域で戦闘が繰り広げられ、旧日本軍の加害行為もあった。今も後遺症に苦しむ人がいる。民間人への補償が必要」と指摘する。
広島・長崎の被爆者には199…