阪神甲子園球場を訪れた安仁屋宗八さん=北村玲奈撮影
■甲子園観戦記 元プロ野球広島投手・安仁屋宗八(あにや・そうはち)さん
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正午になりました。目を閉じましょう。戦争で亡くなったたくさんの方々。野球をしていた方もいっぱいいる。どうか甲子園の空から、元気にスポーツに打ち込む子どもたちを応援してあげてください――。8月15日。試合があれば、球場のみんなで黙禱(もくとう)を捧げていたんですね。
私は終戦のほぼ1年前、1944年8月17日に沖縄で生まれました。おやじは漁師でした。まもなく家族で大分に疎開した。私自身、後に聞かされて驚いたのですが、小型の木造船「サバニ」に乗り、攻撃の危険がある昼間は途中の島の岩場に隠れ、夜間に海上を移動しながら九州を目指したそうです。
大分では防空壕(ごう)に避難した時、爆弾が落ちて私は生き埋めになったそうです。たまたま姉の赤い着物を羽織らされていた。おふくろが必死に土を掘って赤い着物を見つけ、掘り起こしてくれた。もうちょっと遅ければ私は死んでいたのでしょう。沖縄に戻ると、那覇の自宅は跡形もなくなっていました。
55年前の第44回大会(62年)で、沖縄(現沖縄尚学)のエースとして、このマウンドに立ちました。第40回で首里が沖縄から初出場しましたが、このときは記念大会で米国管理下の沖縄にも代表枠が設けられた。私たちは、宮崎と争う当時の南九州大会を初めて制して、甲子園出場を決めた沖縄代表だったのです。
1回戦は広陵と。いま思えば、広島の高校と対戦したのも不思議な縁です。球場の大きさ、お客さんの多さにただびっくりした。緊張で、初球に何を投げたか覚えていないんです。一度は4点差を追いついたものの、4―6で敗れた。球場のほとんどが私たちを応援してくれていました。
19歳で広島カープに入団した。75年から阪神で5年間プレーし、またカープに復帰。81年に引退後もカープの2軍監督などを務め、広島に住んで、もう半世紀になります。沖縄と広島。私はこの二つの街に育ててもらったのです。
だから、子どもや応援団で満員の夏の甲子園をみるたびに、感じるのです。平和だなあ、と。いまもマツダスタジアムでの試合には必ず行きます。満員のスタンドを見て、やはり感じるのです。スポーツというのは、平和でなければ出来ないものだと。
色紙の言葉は「いっきゅういっしん」と読みます。一球一球に心を込めて投げる、といった意味を込めています。きょう試合を見ることは出来ませんでしたが、平和のありがたみを感じながら、心を込めて一つひとつのプレーに打ち込んでください。(構成・竹田竜世)
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あにや・そうはち 1944年、沖縄県出身。沖縄高から社会人をへて64年に広島に入団し、68年に自己最多23勝。広島、阪神での通算18年間で655試合119勝124敗22セーブ。広島のOB会長を務める。