淡々と職責をこなす「職人気質」と評され、口数が多いわけではない。だが、試合に勝つための観察眼を養うために説いた、西日本短大付・浜崎満重元監督(70)の三つの教えは、今も選手たちの心に大きく響いていた。
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浜崎監督は1979年、社会人野球の名門・新日鉄堺の監督に就任し、4度の都市対抗、5度の日本選手権出場へ導き、野茂英雄さん(元ドジャース)らを育てた。87年に西日本短大付へ移った。
グラウンドで選手たちに染みこませようとしたのは、まず「目配り」、そして「気配り」、さらには「心配り」だった。
目で見る、注意を払う、見えないものまで感じ取る――。目に見えるのはデータだ。対戦相手の試合を見て情報を集める。メモはせず全て頭の中に収めた。投手の球種やコース、野手の守備位置、打撃スタイルまで、その情報は膨大でかつ細やかだった。
観察眼あっての判断力だから、戦術も優れていた。例えば無死走者一塁の場面。王道はバントだ。だが、十手ほど用意していたという。
「浜崎監督はID野球のルーツです」と語るのは、1992年の夏の甲子園大会で全国制覇した当時の主将で日本文理大硬式野球部監督の中村寿博さん(44)。ID野球とはヤクルトの野村克也元監督が掲げたデータを駆使した野球だ。猛練習にも歯を食いしばって耐えろ。そんな精神論が世を席巻した時代に、雨の日ならミーティングに2時間かけて理論を説いた。
試合後のミーティングでも、1プレーごとにその根拠を問われた。あの回、あの場面で、なぜあの球を選んだのか、と。
一方で、技術についてはとやかく口を挟まなかった。どのタイミングでどんなことを伝えるか。その見極めが絶妙だった。このあたりが「心配り」のなせる技なのかもしれない。
夏を制覇してから四半世紀が過ぎた。指導者になった中村さんは、浜崎監督の野球を目指す。恩師の境地にたどり着きたい。そう鼓舞する日々だ。(棚橋咲月)